雑念でいっぱいの心は、日常の何気ない動作に心を配ることで晴れていきます。

 

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自分で使ったところは自分で片づける

 

私は京都の臨済宗妙心寺派本山・妙心寺が運営する「花園禅塾」という学生寮で、将来僧侶を目指す大学生と共に共同生活をしています。お寺の生活に準じた暮らしを送り、毎日の朝行事、掃除、食事などを通じて、大学生たちに禅僧としての心構えの基礎を指導しています。

 

花園禅塾では、朝の食事が終わると掃除の時間です。禅塾では、自分たちで使ったところは自分たちで始末します。

ある日のこと。外は霧雨。学生がうれしそうに、「雨が降っています」と伝えてきました。「霧雨だから大丈夫だね。やりましょう」と答えたときの残念そうな顔。きっと「雨だから外の掃除はしなくてもいい」という期待があったのでしょう。 

 

工夫すれば楽しみは増える

 

私たちは、ラクなほうへ流れ、ついサボろうとしてしまいます。あらゆる面において便利さを追求する現代では、なるべく汗をかかず、労力を使わないようにするという発想が主流なのかもしれません。でも、それをあえて、労を惜しまずにやってみてはどうでしょう。

 

雑巾で拭くのが適しているのは、畳か板の間か。どこをどう拭くのがいいのか。縦方向に拭くか、横方向に拭くか。場所によって雑巾の絞り具合も変えたほうがいいでしょう。箒は外へ向かって掃くのか、内へ向かって掃くのか。コンクリート、砂利、苔の上など、場に応じて掃き方も道具も変えなければなりません。それが工夫。その面白さに気づく心を育てるのが、掃除なのです。

 

「やらされている」意識から「やっている」意識へ

 

何事も、混じりっけのない純粋な心で行なうものです。「随処(ずいしょ)に主となれば立処(りっしょ)みな真なり」というわが宗門の開祖・臨済禅師の言葉のように、主体性を持って事に臨めば、どんな場であっても、そこは「真実の場」になる。逆に言えば、「やらされている」のではいつまでたってもそこは偽りの場になると、日頃から学生たちに口うるさく言っています。

 

学生たちからすれば「うるさいじじい」かもしれません。しかし、扉の開け閉めは最後まで手を添える、歩く際の足音に気をつける、履物は揃えて脱ぐ、お風呂で身体を洗う際、シャワーを使わないときはそのつど止めるといった、日常の些細なことにこそ最善を尽くしてほしいのです。

 

あっというまに時間は流れていきます。それに流されないように「今」をつかむことが大切です。とはいっても、それはなかなか難しいこと。まずは、自分が取り掛かる目の前の物事に、「もう少し丁寧に」をプラスすることです。いつもより少しずつ丁寧に暮らしていけば、きっと心が調えられ、清められていくはずです。

 

 


 

 

PHPスペシャル』4月号より

 

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本記事は、PHPスペシャル2019年4月号「疲れた心と頭をゆるめる、ほぐす」より、一部を抜粋編集したものです。

 

【著者紹介】羽賀浩規(はが・こうき)

1967年、岐阜県生まれ。臨済宗妙心寺派蓮華寺(岐阜県)住職。臨済宗妙心寺派本山妙心寺が運営する学生寮「花園禅塾」にて塾頭を務め、僧侶を目指す大学生に禅僧の心構えと基礎を指導する。