東大卒の作家が考える「大切なことは学業から学べない、は本当?」
学業には、人生のヒントも創作のヒントも満ちている
こうして、ショートショートの世界に誘われていったわけなのですが、学業でやってきたことは、創作をする上でそのまま応用できました。
高校時代、ぼくは塾には通わず、学校の宿題のほかは独学で勉強をしていました。
自分に足りないものは何か。それを補うには、どうすればいいのか。考えたことを実行し、結果をもって振り返る。そしてまた、足りないものを徹底的に考える。
三年間、ひたすらそれを繰り返しました。
人生に塾はない。生意気な青二才ながら、当時のぼくはそう嘯いていました。
塾を否定する気はまったくありません。ただ、受験には塾という指針があっても、その後の長い人生には正しい解き方など存在せず、答えだって誰も教えてくれやしない。ならば、塾を盲信するのではなく、いまのうちから学業を通して自分で考え実行する力を磨いておかねば。そう考えて自身と向き合いつづけました。
学業を通して、ぼくは様々なことを学び、身に着けることができたと思っています。
努力とは、どういうことを指すものなのか。挫折とは、どんなものか。どん底からはい上がるというのは、どういうことか……。
挙げはじめればキリがありません。
自分は何にやる気を感じ、何にやる気を失くすのか。やる気のないときにどうコントロールすれば気持ちは上向きやすいのか。
客観的に考えて、自らに問いつづけました。
これらを理解し実行していることと結果が伴うことは、また別の問題だということも学びました。とは言いつつも、それによって目標達成の可能性は遥かに上がるということも学びました。
と、すべてを分かった気でいると傲慢を招き、足元をすくわれかねないのだということも学びました。
この学業での経験を、ぼくはすべてそのまま創作活動、延いては日常生活に応用し、いまがあります。それらは別々のものではなく、本質的には同じものだという感覚もずっとあります。
ときどき、学業からは人生で本当に必要なことは学べないと耳にします。ですが、本当にそうなのでしょうか。
もちろん、部活や趣味など、学業以外のことで得るものも非常に大きいと思います。人によっては学業が肌に合わず、そちらから多く、あるいはすべてを学ぶ方もいるはずです。
ただ、ぼくは学業から「も」、ちゃんと人生で大切なことを学ぶことができる。そう主張をしたいのです。頭ごなしに学業を否定して、応用できるタネを逃すのはあまりにもったいないなと思います。
「小説家なのに」という固定観念に惑わされない
ところで、冒頭の「境界線」の話に戻りますと、いまは「小説家なのに、なぜそんなことを?」と言われる機会が多くなっています。それは執筆をベースにしつつも、ショートショートを広めるための様々な活動を日々行っていることに関係しています。
たとえば一番新しい話で言えば、昨年からショートショートガーデン(SSG)という小説投稿サイトを有志とともに立ち上げ運営しはじめました。
このサイトから派生したイベントも開催しました。イベントではゲストに声優の秦佐和子さんや中西優香さんをゲストにお迎えして、現地でお客様とショートショートをフィジカルに楽しんでもらうような活動もしています。
いち作家が運営するWEBサービスに、「なんで小説家がWEBサービスを!?」「それも投稿サイトを!?」と良い意味でも悪い意味でも、さまざまな反応があります。
小説家とは小説を書いているだけの人。そういうイメージ、固定観念があるのではと思います。
小説家という道を選択し、「東大卒なのに」「理系なのに」と言われてきたわけですが、いまはそれに「小説家なのに」という声が加わりました。
誰かが引いた境界線。自分で引いた境界線。世の中には、じつにいろいろな境界線が存在しています。
ですが、それに惑わされるのはもったいないことだなと思います。「境界線」は時に「常識」というものに名前を変えたりもしますが、これについても同じことです。
無意味な境界線などにとらわれず、やりたいこと、やるべきことを信じてやる。
ぼくはいまでも変わらず、そういった姿勢を持っています。そしてそれは元をたどればすべて学業へとつながっていて、本当に感謝しています。