子どもの安心感を奪う「プチ虐待」に気をつけて

諸富祥彦

安心感のない家庭で起こる「プチ虐待」

問題なのは、安心感がない家庭です。親の期待に沿わなかったら、大変なことが起きると子どもが感じている家庭です。これを、私は「プチ虐待」と言っています。「プチ虐待」には2種類あります。

プチ虐待の1つは、親の期待に応えられなかったら恐い。大きな声で怒鳴られたり、「何でお前はそうなの」と完全否定をされたりして、精神的に暴力を振るわれる。怒鳴られ続ける。これ、結構ありますよ。

電車やバスの中でも、子どもを大声でひたすら怒鳴り続けている親御さんって、結構いるでしょう。あれもプチ虐待です。

もう一方は、無視する。「ネグレクト」です。親の期待に沿わないことをすると、放置されっぱなしになる。親が、基本的に子どもに関心がないのです。基本、ほったらかしです。

すると、子どもとしては、親に何とかかまってもらうために、親の期待に過剰に応えようとするか、逆に1人遊びがとても得意になるか。そういうふうになってしまう。

子どもが”自分”を持つことができるかどうかは安心感を与えることができるかどうか、安心感を持てる子育てをしてきたかどうかが関係します。これがとても重要になってきます。

親御さんの中にはもちろん、「いや、先生、私、虐待なんてしてません」「手を上げたこともないんです」と言う方もいます。けれども、子どもの側には、この親の期待に応えられないと私は見捨てられる、という不安があるのです。これもプチ虐待の1つです。

勉強の強要も虐待のひとつ

実際に、虐待のシェルターには、いわゆる典型的な虐待をされている子どもばかりではなくて、残り3分の1から半数近くは、無理矢理勉強させられたり、「お前、このままでは東大に入れない。せいぜい早稲田ぐらいしか行けないわよ」と精神的に追い詰められて、それで逃げ込んでくる子もいます。

受験勉強があまりにも厳しいので逃げ込んでくる子どもたちがいます。これは、親の期待を押しつけすぎるがゆえのプチ虐待です。

そこに共通するのは、安心感の欠如です。安心感がない。たとえばそこで、子どもが「私はそこまで勉強したくないし、東大にも行かなくても平気だ」とフッと、安心して言えるならばオッケーです。けれども、子どもがそんなこととても言えない。

「私、東大なんか行きたくない」なんて言ったらお母さんがどれだけ悲しみ、どれだけ荒れ狂うかと思ったら、恐くて言えないと思う。これは、プチ虐待なのです。過剰な期待を押しつけるというのは、子どもにとって恐怖でしかない。

子どもの側が、「親の期待に応えられなくても私は愛されている」と思えるかどうかが決め手です。「私は親の期待には応えられない。けれども、私は愛されている」と思える人は、自分を持ち始められるのです。自分を出せるようになります。

親の期待に応えられない、親の期待にそぐわない自分を出しても、親に受け止められると感じている人は、安心感があるから、自分をつくることができる。

「東大なんか行きたくない」とか、「私は音楽なんかしたくない」と、本音を漏らしても親に受け止めてもらえるという安心感、安全感、信頼感があると、自分を出せる人間になっていく。

逆に、安心感、安全感がなければ、子どもは自分を引っ込めてしまいます。自分を引っ込めて、親の期待に応えようとする。こうやって「自分がない大人」がつくられるのです。

やっぱり、いちばんの鍵は、安心感、安全感です。親の期待に応えていない自分を出しても受け止めてもらえるという、安心感、安全感があるか。親の期待に応えらない自分を出したら拒絶されるのではないかという不安があるか。ここによって大きく分かれるのです。

『「自分がない大人」にさせないための子育て』(PHP研究所)
絶えず親の意見に従って、親を喜ばせる事ばかりに熱心になってきたいい子は、大人になっても自分を持たない人になってしまいます。自分の子どもに、自分らしい人生を生きさせるヒントを綴った1冊。