匿名での誹謗中傷も必ずバレる…親が子に教えておくべき「ネットの現実」
文章には癖が必ず出る
法文体分析のすごいところは、多少の文体や調子、たとえばメールだったりブログだったりSNSだったり、語り口やジャンルを問わずに筆者特定ができるところです。違うジャンルの文章であっても、書き手が同一であれば、かなりの精度で同一筆者かどうかの判断ができるのです。
英語はアルファベットのみで書き表すのに対し、日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット等のいくつかの文字種を組み合わせて使います。そして、どれをどのように使うかには大きな個人差があります。
「携帯電話」一つとってみても、「携帯電話」「携帯」「ケータイ」「ケイタイ」「けーたい」のように、人によって書き方が異なります。
読点の位置にしても、みな独自のクセによって打つ位置が違いますし、漢字の使用率、助詞の使い方や頻度など、こういった特徴を全部合わせると、世界で唯一無二のその書き手独特なパターンとなっていくのです。
それぞれの特徴は特殊である必要はありません。一つ一つの要素はよくあるものでも、その要素が全て束になったときには、その人独自の組み合わせになるわけです。
法文体分析の場合、筆跡鑑定と異なって、統計的処理にも向いていますし、分析する人の主観が入りにくいので、より客観的な分析ができ、おのずと信頼性も高くなるのです。
ですから、ネットは手書きじゃないし、どうせバレるはずはないとタカをくくって気軽に変なことを書き込んだりするとあとで痛い目に遭うかもしれないということを、子どもにも伝えて肝に銘じさせておくべきでしょう。
「表現の自由」はどこまで適応される?
誰かをいじめることばを発したり、SNSに書き込んだりしても、「これは表現の自由だから問題ない」と考えている人がいます。また、少々ドギツイ内容のものであっても本当のことを言っているのだから問題ない、むしろ言う権利がある、というのは誤解です。
表現の自由は、なんでもかんでも表現してよいという自由ではありません。そもそも、表現の自由が大切なのは、社会を良くしていくためです。公権力によって言論の統制などを受けると、間違った政策に対して間違いだと声を上げることができなくなってしまいます。
そうすると、社会を良くする機会を失ってしまうわけです。ですから、近代民主主義国家の多くで、憲法という国の基礎を作るルールの重要な項目の一つとして表現の自由が保障されているのです。
そこを理解すると、もともと社会を良くすることが表現の自由という権利の存在意義なわけですから、一般の人同士で、誰かの幸せに暮らす権利やプライバシーや名誉を侵害することを言うことが表現の自由として認められない理由もわかると思います。
いじめる側の表現の自由よりも、相手の人権のほうが大切にされるのです。いじめのことばは、他人を傷つけることばです。幸せに暮らす権利を奪うこともあります。
他人の自由を踏み台にして、自分の自由が守られるはずがありません。そして、社会を良くするためにあるはずの法律が、社会を悪くするいじめや嫌がらせを守るわけがありません。
重要なのは社会全体の利益とのバランス
表現の自由を考えるときは、その表現の自由を守ることと社会への利益のバランスを常に考えなければいけません。
もし、その情報が個人の権利を侵害するものだとしても、それによって得られる社会全体の利益のほうが優先されるべき場合は、表現の自由が認められます。たとえば、犯罪者の氏名や顔写真などが公開されるのが認められているのがその例です。
家庭などでもこういう問題を一緒に考える時間を積極的に持つようにしてみてください。そういう時間を持つことが、自分の、そして他人の権利を守る心を養うことにつながっていくでしょうから。
『いじめのことばから子どもの心を守るレッスン』(河出書房新社)
教室やSNSなど必要以上に子どもが傷つけられない&誰かを傷つけさせないための言葉の使い方、伝え方、考え方を具体的に教えます。