「食べられるなら年収200万で十分」若者の意欲を失わせた“大人の私心”

奥田健次

社会にでて行ける子に育てるには?

今は子どもの動因、モチベーションを高めるほうがむずかしい時代になっているのです。親自身にもリストラの危機があります。給料だって右肩上がりというわけにはいかないかもしれません。

そういう現実の中でも、子どもを育てなければなりません。ただ生物学的に大きくしていくということではなく、社会で生きていく力を与えなければならないのです。

社会で生きていくということは、ただ学歴をつけるとか、いい企業に就職するということではありません。集団、組織、地域に属し、そこで自分の力を発揮していくことを意味します。つまり、公の中で何かしら貢献していこうという姿勢です。それをわかりやすく言うと、「公共心」です。

社会にでよう、会社のためにがんばろう、地域社会に貢献できる人になろう。そうした気持ちを育てるには、公共心がないと駄目なのです。戦後の日本人に欠けている価値観のひとつです。

 

「私心」ばかりの大人たち

では、公共心がない大人とは、どういう人なのでしょう。たとえば、テレビのワイドショーを見て、「公務員ばっかりいい給料をもらっている」とぶつくさ言う人がかならずいます。

マスコミの公務員叩きは、庶民が共感し、世論が盛り上がるからやっているだけです。そういう背景に気づかず、そうした人はねたみやひがみを増大させていきます。

昔からどんな地域にも、町の代表者みたいな人がいるものです。たいてい立派な家に住んでいて、いい車にも乗っています。子どもたちも優秀で、いい学校へ行き、近隣の人たちからも一目置かれるような家族です。

そういう家の中には、強欲で身勝手で嫌われても仕方のない家もありますが、代々、地域の教育や福祉に貢献してきた家もあります。ところがそういう人たちと自分たちを比べ、「あの人たちばかりいい思いをして」と文句を言う人もいます。

要は、「ずるい」「こっちはいつも損ばかりしている」と、目に見えるところばかりに反応してぶつくさ言っているのです。もちろん、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、そういう願望を抱くのは人間としておかしなことではありません。

しかし、他人をねたんだりひがんだりする人は、結局、自分さえよければいいと、「私心」ばかりをふくらませてしまうのです。損得勘定のモノサシしかないのです。私心とは、公共心の対極にあるものです。

「公共心」が欠如した親に育てられた子の行く末

公共心は、家庭、学校、会社、地域社会、そして国家まで、拡がりをもつものなのです。しかし、私心がふくらみすぎた人は、そのつながりが欠如しています。

自分さえよければいい、せいぜい家族までという考えが基本ですから、どこでもかしこでもプライベート空間のようにふる舞います。傍若無人に見られていることに気づいてすらいません。

以前、新幹線の車内で、堂々と赤ちゃんのオムツを替えているお母さんがいました。うんちのにおいがあたりに充満するのもおかまいなしです。最近はオムツ替えや授乳に使える多目的室を完備した車両もあります。

その親子の席は出入り口のすぐそばでしたから、デッキへでればすぐ多目的室があります。にもかかわらず、自分がラクするほうを選んだのです。

こうした親は、その赤ちゃんが大きくなってからも、電車でお年寄りに席をゆずることを教えないでしょう。「友達が困っていたら助けてあげなさい」ではなく、「時間のムダだからほかの子に任せておきなさい」と言うかもしれません。

そうやって育てられた子が、「給料はよくないけど、社会貢献できそうなこの会社にやりがいを感じる」と、考えるようになるでしょうか。

「高橋君はいい会社に就職したけど、僕は僕で仕事を楽しんでるから満足」と、考えられるようになるでしょうか。

不満だらけで、自分がうまくいかないのは、親のせい、学校のせい、上司のせい、社会のせい…と、責任転嫁したり、周囲をねたみ、ひがむ人生を歩くことになってしまうのではないでしょうか。