母の恋人は新卒の若者だった…「平凡な幸せ」を願う一人息子の葛藤

イ・ヒヨン(著)

痛みをともなう愛

そうだ、この世に平凡な愛など存在できない。人を傷つけない限り、悪い愛もないだろう。─痛みをともなう愛はあるだろうけど。

母とソンビンさんのそれは、痛みをともなう愛なのだろうか。決して平坦ではないだろう。ふたりとも大いに後悔するかもしれないし、いやな思い出だけをお互いに残すことになるかもしれない。

もしもぼくがほかの都市へ行ってしまったら、そのときソンビンさんは母のそばにいられるんだろうか。夜遅くまで工房にいる母のために後片づけを手伝ってくれて、重い物を運んでくれて、もし母が体調を崩したら薬を買ってきてくれるだろうか。

小食な母のためにあれこれ料理をしてくれるだろうか。向かい合って座り、語らっていたふたりの姿が目に浮かんだ。

周りの人たちは、ふたりがそんな平和な時間を過ごせるように、おとなしく見守ってばかりはいないだろう。最悪の場合、ぼくとソンハの仲まで壊れる可能性もある。

言うまでもないが、ぼくたちは『ロミオとジュリエット』のような関係ではない。けれども、小学生のときにも聞いたことのない「もうあいつと遊ぶな」みたいな言葉を今さら聞くことになるかもしれない。

思うに、平凡でないものは愛だけじゃない。ぶっちゃけ、普通だ平均だと言いきれる人生なんかないじゃないか。同じ見た目でにょっきり立っているマンションじゃあるまいし。

いや違うな、最近のマンションは外観が同じなだけで内部は多種多様だ。マンションにすら平均を求めないのに、いわんや人の人生においてをやだ。

「平凡な人生」は高速道路を走るようなもの

「なにをそんな考え込んでんの?」

ソンハが聞いた。ぼくはジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。

「お前は”平凡”ってなんだと思う?」

少し前にドンウにした質問だ。あいつはコーラをふき出したから答えられなかったけれど。

最近になって平凡さだとか、普通、平均といった単語がしきりに頭の中をかけめぐっている。考えてみると、ぼくと母の16歳という年齢差は、昔であればまったく問題にならなかったことだ。

そのころは20歳になる前に結婚し、子どもを産むのも早かったから。過去にはスタンダードとして考えられていたものが、今はノーマルでないものになった。

今はなんら問題のない物事が、過去には重大な問題であったように。現在は奇怪に思われているどんなことが未来には当然視されるようになるのか、だれにもわからないではないか。

黒人の大統領が誕生し、女性が政財界に進出して輝かしく活躍している現実は、わずか百年あまり前には想像するのも難しいことだった。

いや、そんなに遠くを眺めるまでもない。目の前の母を見てもそうだ。母がぼくを産んだ当時にしても、シングルマザーに対する周囲の視線はこの上なく冷たかった。すべての責任をひとりに負わせ、高校生が子どもを産んだという事実に無知からくる非難を浴びせた。

今もなお傷つける人々はいるが、温かい心で手を差し伸べようとする人も過去に比べると多くなった。ひいては生命の誕生において、どちらか一方ではなく両者に同じく責任を問う世の中もきっと訪れるはずだ。それが常識のいたって平凡な世の中が。

「あんた、前にも一度言ってたでしょ? 平凡な人生。普通の人生について」

耳にソンハの声が流れ込んできた。

「あたしも自分なりに考えてみたんだけどさ。ただ、高速道路を走るようなものじゃないかな」

「高速道路?」

聞き返しながら顔を上げた。ソンハはリュックのひもをぎゅっと握った。

「もうきちんと舗装されてる道ってこと。まっすぐ走っていって料金所を抜け出ればいい道路。料金所を見つけるまでは簡単に方向転換もできないし、来た道を戻ることもできないじゃん。便利で速い分、もうその道に乗っかったら、ほかの選択肢があんまりないの」

こういう話をするとき、ソンハは少し顔つきが変わる。なにか深いことを考えている面持ち、とでも言おうか。

「みんなが求めてるものって、そういうのだと思う。ただただ、でこぼこしてない、障害物のない、よく舗装された高速道路に乗ること。いい大学を出て、就職に有利な学科を卒業して、大企業に就職するの。

何歳くらいに結婚して、子どもは何歳で産んで、家はいつ買って、もうシミュレーションまでバッチリ終えた人生をたどるだけ。ほかの道を見ることもなく、きちんと整備してある高速道路に、とやかく言わず進入する。それがいちばん安全で速いんだ」

「でもさ。もう今どき…」

「わかってる、前にも言ったじゃん。今や高速道路がなくなっただけじゃなくて、仮にやっとのことでその道に乗ったとしても、昔みたいにすんなり目的地まで連れていってはくれない」

世の中はどんどん平凡さと普通さを失っていった。平均としてとらえるべきものも、基準として掲げるべき法則も、いつしか崩壊してしまった。それは幸でもあり不幸でもあった。

もう学歴と人脈だけで成功できる時代は過ぎ去った。しかし、家庭を築いて子どもを産むという、過去には平凡な人生と言われた暮らしを気安く夢見ることもできなくなった。

「普通の人生なんか、はなからなかったんだと思う」

ソンハの口元に苦笑いが浮かんで消えた。

「それぞれの人生に満足して幸せなら、それがすべてじゃない? 残り少ない高速道路に乗っかろうとあがく代わりに、なんていうか、ちょっとでこぼこでもいいから、それぞれの道を作っていくのもひとつの方法だよ」

シングルマザーの息子として生まれて父親の存在を知らないことが、ぼくの人生で問題になることはまったくなかった。裕福ではなかったけれど、そばにはいつも母がいたし、ぼくらはそれぞれの場所でベストをつくした。お互いのよき友であり家族になった。

人を傷つけることなく、一日一日をまっとうに生きている人生なら、それが正解で幸せだろう。だれかが定めた”平均”は、また別のだれかにはなんの意味も持たないこともある。