2歳まで気づかれなかった“重度難聴” 聞こえないのに語彙が豊富だった理由
生まれつき重度の難聴をもつ牧野友香子さん。現在は二人の子どもの母であり、起業をして会社を運営する経営者。牧野さんは、子どもの頃の両親の教育が今のご自身を形成していると語ります。
「聞こえないからできない」が許されなかった、牧野さんの幼少期とは?ご著書『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』から一節をご紹介します。
※本稿は、『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(KADOKAWA)より内容を一部抜粋・編集したものです
みんなと同じだと思ってた
母が言うには、私は赤ちゃんのころから勘がよくて、難聴だとわかる前から、人の口を見て何を言っているか読み取っていたみたいです。だから、会話が伝わることで難聴に気づいてもらえず、結果的に発見が遅くなったそうです。
「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、私は当時から「人としゃべりたい!」という気持ちが強かったのでしょうか、コミュニケーションが大好きだったからこそ、自然と口を読んでいたのかもしれません。幼稚園のころは、”補聴器をつけている”からみんなと違うと自覚していたけれど、「補聴器をつけて、口を読めばみんなとまったく同じ」だと思っていました。だって友だちもいたし、会話もできるし、得意なこともたくさんあったし、一緒やん!と。
でも、実際は全然違うと気づくのは、もっと先の話。そして本当は、みんなと同じといっても話すのは全然上手じゃなかった。例えば、時々しか会わない幼稚園の友だちのお父さんやお母さんからは、私が話したことに対して「えっ?なんて言ったの?」とよく聞き返されていました。
でもすごいのが、毎日のように一緒に遊んでいる友だちには、ほとんど聞き返されたことがなくて。耳が慣れるって言うけど、幼稚園のころのお友だちとの会話に、特に支障はありませんでした。
そうそう、ごくたまに、同級生に「なんて言ってるの?わからないんだけど!」と言われると、「いやいや、なんでわからへんの?」と思ってたくらいです。小さい時は、自分中心に世界が回っているのもあって、「他のお友だちはわかってるのに、なんであの子は聞き取れないんだろ?不思議〜」って感じで。今思えば発音が悪いからやん!ですよね。笑
でも当時のことを思い返してみると、モゴモゴ話す子とか、ボソボソ下を向いて話してしまう子や、後ろからしゃべりかける子とはたしかにそんなに仲良くなかった。言っていることが、わからなかったんだろうなあ。単純に口の動きが読みにくくて、うまく会話ができなかったからだと、今はわかるんですけどね。当時は、わかっていませんでした。
「聞こえない」けど、「知ってる」し「わかる」
母いわく、2歳で重度難聴とわかってことばを教え始めた時、「この子が身につけることばは、全部自分にかかっている」とすごく責任を感じたそうです。耳から聞いてことばを知ることができないから、自分が伝えて教えないと、と。
当時はインターネットで調べることもできないし、周りに聴覚障害者がいたわけでもないので、常に試行錯誤の中、私にことばを教えてくれていました。私は母や父の口の動きを読んでことばを覚えていきました。物の名前ばかりではなく、天気や日常に溢れていることば、「楽しい」「うれしい」などの感情語、「今日は買い物に行ったね」といった文での表現など、ことあるごとに母はさまざまなことばをかけてくれました。
会話の中で自然に教えてくれていたので、私としてはあまり「ことばの勉強」をした自覚はありません。気づいたらいつの間にか話してるし、いろんなことばを知っているという感じでした。
いまだに母が自慢するのは、「あの時の私、本当に記憶力がすごかった!」と。当時の母は、私が理解していることばを全部把握していたんですって!日常的に、あえて私が知らないことばを使って話すことで、語彙を増やしていったそうです。
例えば、「母親」のことは「お母さん」「お母さま」「母」「ママ」「おかん」など、いろいろな言い方がありますよね。もし私が「お母さん」しか知らなかったら、誰かが「ママ」と言った時にそれが 「お母さん」のことだとわからない。同じ意味でも、一つひとつのことばを私にインプットしなくてはならないので、「頭をフル回転させて教えていたな〜、あの時はめっちゃ頭よかったと思うわ!」と 言っていました。
両親だけでなく、一緒に住んでいた祖母もいろんなことばを教えてくれたので、けっこうシブいことばも知っていたっけ。いろんな人のことばに触れられたのはよかったかなと思います。
聴覚障害児だから!?語彙力が高かった
障害のある子がそれぞれの困りごとを減らすための指導を受けることを「療育」というのですが、私は、聴覚障害がわかったすぐ後、3歳くらいから始めました。療育として通っていたのは、難聴児通園施設と月に1回行く民間のことばの教室。そして家庭での療育。こんなふうに周りからことばをサポートしてもらっていたおかげで、いろんなことばを知っている幼稚園児になったのかもしれません。
地元の幼稚園に通い出したころには、周りの聞こえる子よりも多くのことばを知っていることもありました。「節分」とか「七夕」といったことばもすでに知っていたし、幼稚園の先生が「七夕は、誰と誰が会う日でしょう?」とクイズを出すと、われさきに「織姫と彦星!」って答えてましたから。正直「聞こえない」けど、「知ってる」し「わかる」から、ハンデを感じなかった。
むしろいろんなことを知ってる自分に自信があって積極的だったかもしれない。実際は、コミュニケーションする上でのことばは知らないし、足りないことばはかなり多かったけれど、園生活で私自身がそれを自覚することはありませんでした。
先生の言うことを完全には理解できなくても、口を見て読み取れた単語をつなぎ合わせれば何を言っているかくらいはわかったので、自分はできるんだという自信がありました。その自信の源には、ことばを知っているということや、聞こえない私のありのままでいいと、愛された環境に置かれていたからだと思います。その自信をつけてくれたのは、まぎれもなく家族です。
私に必要なことを、私に合った形で提供してくれた家族。当時、何もかもが手探りだったはずです。感謝しかありません。私自身が難病児の母親となった今、家族がいい先輩であり相談相手でもいてくれる
ことを心からありがたいと思っています。
家では「聞こえないからできない」は許されない
小さいころから両親に言われていたのは、聞こえを言い訳にはしないということ。もちろん、聞こえなくてできないことはやる必要はないけれど、そうじゃないことは基本的に「当たり前にやる!」環境でした。
「聞こえないからできなくてもいい」「聞こえないからあきらめてもいい」なんてことが、我が家ではまったくなかったんです。
音楽の授業でリコーダーを吹くことがあった時も、聞こえなくても吹くことはできるし、ピアノだって、聞こえなくても弾くことはできるでしょ?っていう感じで。リコーダーの宿題をやりたくなかった私が、聞こえないし難しいって!と聞こえないことを理由にサボろうとすると、「『ド』の鍵盤を押せば『ド』の音が出るのと同じで、リコーダーも『ド』の指をすれば『ド』が出るやろ」と言われて、ぐうの音も出ませんでした。
バイオリンは、自分の弾いた音を聞いて判断するからできなくても仕方がない。でも、ピアノや木琴は聞こえなくても関係ない。「だって叩いたら、その音が出るねんから」って。いや、そりゃそうだけど……。笑
リコーダーは吹けて当然、ピアノも木琴もできて当然、楽譜だって読めて当然。だって、楽譜を読むのに聞こえないことは関係ないから。聞こえないからこそ、聞こえに甘えずやることはちゃんとやる!というのが、両親の考えでした。「聞こえないから勉強したくない」とか「聞こえないから宿題できない」なんてことがまかり通る家じゃないから、私も「そういうもんかな」と納得していました。
今になって思うと、両親の考え方が私を形成したと思います。自分にできないことがあっても、「聞こえないからしょうがない」とあきらめる前に、「どうやれば、聞こえなくてもできるようになるんやろ?」と考えるようになったから。
「聞こえないからできない」がない分、「聞こえないからやっちゃダメ」もあまりなくて、やりたいことは自由にさせてもらいました。スイミングを習っていた時、水の中では補聴器を外すので、泳いでいる時はまったくの無音。コーチが何か言っていても全然聞こえなくて、口パクで読める時はよかったけど、毎回配慮してもらえるわけでもなく。
それはそれで大変だったのですが、泳ぐのも、スイミングの後みんなでタコせんを食べるのも、楽しかった。聞こえないことに甘えず、いろんなことに挑戦するのが当たり前でした。
『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(牧野友香子著/KADOKAWA)
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