「学童代わりの塾」が戦場に…気づけば中学受験に挑むことになったシンママの体験談【前編】

宮本さおり

校舎により違う雰囲気

受験コースに替わると生活は一変した。通いなれた校舎には中学受験コースはなく、他の校舎へ電車で通うことになったのだ。塾代も一気に万単位で上がった。距離、金額とも、もはや学童保育の代わりではない。それでも本人の意思だからと、順子さんは息子の希望を最大限叶えようとした。

ところが中学受験の塾生活はそう生やさしいものではなった。通い始めて数カ月、初めは順調だった成績も4年生になると急降下。好調時と比べると偏差値は15〜20ポイントも下がってしまった。電車で通う校舎の受験クラスは、「第二の家」とまで呼んだ元の校舎とは雰囲気も大きく違った。成績によるクラス替えもあり、塾生同士はライバル関係。新校舎はまるで“戦場“のようだった。

この校舎に通うようになってから、成績は下がり続けた。すると、伸也君の心にも変化が現れた。“劣等感“が住みつきだしたのだ。母親がどんなに、

「大丈夫、次の試験はきっとできるよ」

と声をかけても、

「僕はできないんだ……」

と言うばかり。根深い劣等感に苦しみ、受験コース入塾時に目標としていた、早稲田大学の附属校には、到底手の届かぬ成績にまで下がっていた。

塾では成績の張り出しもあった。成績上位の子たちは教室の中で、大きな存在感を放っていた。伸也君はたびたびこう漏らすようになる。

「なんとなくみんなが怖いんだ」

この成績と精神状態で、本当に受験にチャレンジすべきなのか─。



同じ塾でも校舎により雰囲気が違うのはほかの塾でも見られる。サピックスのマンモス校舎に通わせていた家庭を取材したことがある。小規模校舎から受験コースのある大きな校舎へ移った伸也君とは逆に、その家庭では息子がサピックスのマンモス校舎から中規模校舎に替わった。母親は、10クラス以上もあるマンモス校舎と違い、先生への質問もしやすく、丁寧に見てもらえる気がすると話していた。彼はここから海城中学校に進んでいる。

マンモス校舎でなくとも上位校は目指せる。受講するクラスの雰囲気や先生が子どもに合っていないと感じたときは、校舎を替えるだけでも成績が変わることもある。

伸也君の母親も、息子の「怖い」という言葉が気にかかっていた。もしかして、合っていないのでは……そんな順子さんの気持ちを察知してか、塾側は頻繁に電話をかけてきた。

「大丈夫です。本人は今頑張っていますから、ここであきらめたらもったいないです。私たちに任せてください!」

しかし、もう限界だと思った順子さん。伸也君が6年生となる春、驚きの決断を下した。

それは埼玉から東京への引っ越し。そして順子さんが会社をやめ、フリーランスになることだった。引っ越しと転職という、母子ともにとても大きな変化というリスクをとりながらの、大胆な「リセット」である。

順子さんには、数年かけて降り積もった息子の劣等感を払拭したいという強い願いがあった。そのためにも、もう少し息子に関われる暮らしに立て直したいと思ったのだ。埼玉に住む前、離婚するまでは東北地方で暮らしていた順子さんと伸也君。引っ越し後、順子さんの仕事は年々多忙になり、いつの間にか息子と顔を合わせてゆっくり話せるのは毎日ほんの数分になっていた。

でも、会社員を辞めてフリーランスになれば、母子の時間を増やすことができる。東京には信頼関係を築いたクライアントがたくさんいるため、彼らと直接仕事をする道すじはできていた。そして東京に引っ越せば、出口が見つからなかった埼玉での受験生活に一区切りつけるきっかけにもなるかもしれない─。

当然、母親が暴走するのではいけない。順子さんは、リスタートするにあたり、伸也君の意思をしつこく確認した。

「こんなに成績も落ちたし、無理に受験しなくてもいいんじゃない? 受験、やめたら?」

落ち着いた声でそう話した。しかし伸也君には受験をあきらめる気持ちはなかった。

「どうして僕が頑張ろうとしているのに、お母さんはチャンスを奪うの! 僕にもう一度チャンスをちょうだい」

母が想像もしないほど息子は固い意志を持っていた。こうして母子の東京での新生活がスタートした。

(後編へ続きます)

中学受験のリアル

宮本さおり著『中学受験のリアル』(‎集英社インターナショナル)

急増する中学受験生、「全落ち」などの厳しい現実…。
「合格体験記」には書かれないドラマを追って、15組の親子を取材したノンフィクション。

首都圏の中学受験者数は2023年、過去最高を記録した。東京・神奈川・千葉・埼玉の1都3県では、18パーセントの子どもたちが受験を経験し、熱は地方にも波及している。中・高一貫校への人気が高まり、子どものために移住するケースもみられる。一方、第一志望校に合格する子どもの数はわずか3割。負け戦とわかっていても中学受験へと向かわずにはいられない親子。まだ幼さの残る小学生の彼らが立ち向かう受験という魔物。

「全落ち」を経験する子どもは立ち直れるのか? 親のエゴや塾の実績づくりで志望校を決めていいのか? 偏差値では測れない、子どもに合った学校とは? 中学受験に挑んだ親子を5年間追い続けたルポルタージュには、きれい事では終わらない中学受験のリアルがある。