思春期の暴力の背景にあるのは? 追い詰められる前に知っておきたい子どもとの向き合い方
10代の子どもの暴言や暴力に悩む家庭も少なくありません。
しかし、攻撃的な行動の裏には、本人も言葉にできない苦しさや混乱が隠れていることが多いといいます。
精神科認定看護師として多くの10代と向き合ってきたこど看さんによる、現場の視点からの解説を、著書より抜粋してお届けします。
※本稿はこど看著『児童精神科の看護師が伝える 10代のこわれやすいこころの包みかた』(KADOKAWA)より一部抜粋、編集したものです。
暴言・暴力の裏に隠されている気持ち
思春期の子どもは、時に湧き上がる激しい感情を自分でうまく処理できないことがあります。想像したらなんとなく理解できるのですが、「怒り」「悲しみ」「悔しさ」「寂しさ」「戸惑い」「混乱」など、大人であっても扱いに困るような感情は、子どもにとって非常に厄介な感情なのです。
私たち大人と違い、子どもは自分の気持ちを正確に把握する力がまだ育ち切っていないので、「苦しいけど……この気持ちってなんなの?」と戸惑うことが結構あります。そのため、不満や葛藤が解消されずに溜まっていき、結果的に暴言や暴力という形であふれ出してしまうことがあります。
このような行動に対して、「どうしてそんなことをするの!」と責めたくなるのは当然の反応です。大人だってひとりの人間ですから、怒りや悲しみ、子どもの将来への不安といった複雑な感情を抱えても無理はありません。しかし、少しだけ落ち着いて考えてみてほしいのです。暴言や暴力そのものは確かにいただけない行動ですが、「暴力をしたからこの子は暴力的な子だ」と決めつけてしまうのは、あまりにも早計かもしれません。子どもの行動と人格を結びつけて、「暴力的な子」とレッテルを貼るのは、その子の背景にある気持ちを無視した一方的な決めつけではないでしょうか。確かに
その子は人を傷つけたかもしれませんが、それをもって人格まで否定してしまうのは、違うと私は思うのです。
暴言や暴力に対してはさまざまな意見がありますが、私自身は、「その行動はよくないけれど、あなたの気持ちは否定しないよ」というスタンスでかかわるようにしています。なぜなら、最初から「人を傷つけよう」という明確な意思を持って行動している子どもは、私の臨床経験からしてもほとんどいないからです。むしろ、自分でもコントロールできないほどの感情をどう扱えばいいのかわからず、結果として他人を傷つけるような行動になってしまっているケースが圧倒的に多いのです。
攻撃的な行動の背景に「どんな気持ちがあったのか」「どうなりたかったのか」に目を向けると、見えてくるものがあります。言葉でうまく表現できず、攻撃的な行動に頼るしかなかったのかもしれません。行動と人格を結びつけて評価するのではなく、攻撃的な行動の裏側にある思いやメッセージを見逃さないようにしてほしいのです。
そして、暴言や暴力のあとに子ども自身がひどく後悔し、「なんであんなことをしちゃったんだろう」「また人を傷つけてしまった」と自分を責めていることも少なくありません。そんなときこそ私たち大人が冷静に、そして丁寧にかかわることが大切です。
子どもが落ち着きを取り戻したら、「あのとき、何かつらいことがあったの?」と、行動の背景にある気持ちに目を向ける声かけをしてみてください。もちろん、理由があれば「全部OK!」になるわけではありません。相手を傷つける行動はやはり許されないことですので、「次に同じような気持ちになったらどうしたらいいか?」という視点で、子どもと一緒に対処法を考えていく「作戦会議」が有効です。
一方で、暴力が頻回であったり、周囲の生命や安全が脅かされるほど深刻であったりするのに、「子どものことは親である自分がどうにかしなければ」と思い込んでしまう保護者も少なくありません。ですが、状況によっては警察や第三者機関に頼ることが必要な場面もあります。実際、家庭内で起きた暴力を家庭内で処理しようとして、保護者が深く傷つき、子どもとの関係がさらに悪化してしまうケースも少なくないのです。
警察への通報は薄情なものではなく、あなたと子どもを守るための行動です。
もし、家庭の中で子どもの攻撃的な行動が繰り返され、身の危険を感じるような状況にある場合は、周囲から「薄情だ」と言われようと、「保護者としての責任」よりも、まずはあなた自身と子どもの命を守る行動として、警察や第三者機関に通報しましょう。お互いの安全を守るために限界を設定しておくことは大切なのです。
私たち大人ができることは、子どもの暴力的な行動を「仕方のないもの」と容認することではなく、行動の裏に隠れている思いに考えを巡らせ受け止めながらも、いざというときは毅然とした対応を取ることです。その際には、子どもの暴力的な行動と子どもの人格を結びつけて「暴力的な子」と評価するのではなく、「暴力的な行動によってどうなりたかったのか」という視点で向き合い、その理由に耳を傾けてほしいと願っています。