「いじめを絶対にゆるさない!」が生み出してしまう“新たないじめ”
子どもを持つ親なら心配なのが、いじめ問題。子ども同士のトラブルは尽きないものだが、どのくらいの段階で、どのように大人が介入するべきなのか――その見極めはかなり難しい。
そこで、革新的な教育改革で注目される麹町中学校長であり(注:当時、2020年4月より横浜創英中学・高等学校校長に就任)、2人の息子の父親でもある工藤勇一氏に、子どものいじめと大人の対応法、そして大人が子どもに伝えるべきことなどを聞いた。
※本稿は工藤勇一著『麹町中校長が教える 子どもが生きる力をつけるために親ができること』(かんき出版)より、一部を抜粋編集したものです。
工藤勇一(くどう・ゆういち)
横浜創英中学・高等学校長/元千代田区立麹町中学校長
「いじめかどうか」の特定よりも大事なこと
親御さんなら誰でも一度は「うちの子はいじめられていないか」もしくは「いじめをしていないか」と気にしたことがあるのではないでしょうか。
とくに平成18年度、いじめの定義が変わってからは、とても広い範囲でいじめを定義するようになりました。
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
注目すべきは「自分より弱い者に対して一方的に」が「一定の人間関係のある者から」に変わり、「継続的」な攻撃でなくても(=1回だけでも)「いじめ」にあたるというふうに、いじめの定義が広くなった点です。
文部科学省がこのように定義を変えた最大の理由は、いじめによってかけがえのない子どもたちの命が失われるという痛ましい事態が、何度も重なって起きたからです。
そういった子どもたちを救うために、よりいじめの定義を広げて些細なサインを見逃さないようにしようと考えたからであり、これ自体は悪いことではありません。
しかし、いじめの定義が広くなってからは、何がいじめで何が単なるトラブルですませられるかの線引きが曖昧になりました。
また、同じ出来事でも、重く受け止めるか気にしないかは人それぞれです。
ですから、いじめについて考えるときは、「いじめかどうか」を特定することではなく、子ども同士のトラブルに対して、大人がどのように支援をするかが大切なのです。
トラブルを自律に結びつける
子どもたちの生活のなかでは、どうしたってトラブルは発生します。
そのときに、社会でよりよく生きていくためにも、子どもが自分の力で解決できる力を身につけること、一人の力で足りなければ周りの力を借りながら解決できるようになることが求められます。
子ども同士のトラブルに対して、どう仲良くさせるかといった観点から問題解決を進めるのではなく、このトラブルをどう子どもたちの自律に結びつけるかが最上位目標だということを、誰もが心にとめておかなければなりません。
たとえば、「一人だけ違うことをしていたのが気に入らなかった」というのであれば多様性について学ぶきっかけになるでしょうし、「ただふざけて遊んでいただけ」というのであれば、相手との距離感を考えるきっかけになるはずです。
いじめとふざけていることの境界線はとても曖昧です。
親しい友達とは多少ふざけて遊んでも問題になることはほとんどありませんが、そこまで親しくない人に同じようなことをすると、トラブルになります。
親しい友達に言っていいことと、親しくない友達に言っていいことは違うのです。
私たち大人だって家族や友人には気安く接しても、初対面の人に対しては丁寧な態度になるでしょう。
子どもたちはそうした距離感だって、学んでいる途中なのです。
「誰にでも優しくしなさい」という言葉はたしかに理想的な言葉かもしれませんが、人との距離感を教えるには妨げになってしまう気がします。
子どもが人間関係の壁にぶつかるのは当たり前のことです。この壁にぶつかりながら、さまざまな経験を通して、人との距離感を学んでいくものだと思います。
一番の理想は子ども同士でトラブルを解決することですが、なかには自分の力で解決できないこともあります。
その一つひとつのトラブルに対して、見守ってあげていればいいのか、大人が関わったほうがいいのか、関係機関と連携したほうがいいのか、警察などを含めた学校外の組織が介入しなければならないのか……、大人はそれを見極めながら、上手に子どもたちの自律を支援していくべきです。