画面の中の裕福な家庭が羨ましい…「テレビで世の中を学ぶ子ども達」が抱える孤独

キム・ソヨン

お隣の国・韓国では、詩集やエッセイ、短編集などが身近なものとして愛され、広く親しまれています。ベストセラーとなった『子どもという世界』は、読書教室を営む著者が、子どもたちと触れ合う中で感じたさまざまな想いを紡いだ短編エッセイ集。その中から一篇をご紹介します。

※本稿はキム・ソヨン著『子どもという世界』(かんき出版)から一部抜粋・編集したものです。

キム・ソヨン
児童書の編集者として長年働き、現在は読書教室で子どもたちと本を読んでいる。著書に『児童書の読み方』『話す読書法』(すべて未翻訳)がある。
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一番さみしい子を基準にして

子どもたちと作文の練習をするとき、家に例えて説明することがよくある。単語をレンガに、文章を壁に、段落を部屋に例えるのだ。

特に、1つの段落には1つの考えだけを書くようにというのを、寝室、キッチン、トイレに分けて例えるとわかりやすい。家の大きさや家族の数によって部屋の数が変わるように、文章も状況によって段落の数は変わるのだと説明したりもする。そういうときは、子どもたちが具体的に思い浮かべられるよう私の経験も話すようにしている。

「先生のうちは部屋が3つなの。でも先生は、昔は部屋が1つしかない家にも住んでたことがある。どれも家なんだよね。文章も1つの段落だけで成り立つ場合もあるんだよ」

「その時は先生も一人で住んでたから部屋が1つだったの?」

ふと言葉につまった。うううん、4人家族が1つの部屋に暮らしてたんだ。その言葉がどうしても言えなかった。

* * * * *

ワンルームに家族みんなで暮らしていたのは、小学校1年生の頃だ。幼かった私はそれが不便なのかどうかもわからなかった。ただ、友だちを家に連れてこられないのが残念だった。両親が許してくれなかったから。私が友人の家に遊びに行くのもいい顔をしなかった。

遊びに来るのがダメなのはまあ仕方ないとしても、私が遊びに行くのがなぜダメなのか理解できなかった。友だちの家に遊びに行き始めたら、その友だちも我が家に呼ばないとならないからだろうか? 私がよその家がどんな暮らしをしているのか目にするのが嫌だったのだろうか?

大人になってからはそう思うようになった。

ある日やっと許しをもらって学校帰りに友人の家に行った。ランドセル、上履きを入れるカバン、ペンケース、傘までおそろいのセットになっているのを持っている子の家だった。私はその家が2階建てなのよりも、その子がインターホンを押すのを見てもっと驚いた。この家全体が自分の家ということだから。私たちを出迎えてくれたのはその子のおばあさんだった。

「あなたがソヨンね。書き取りが上手なんだって?」

そう言われた。家があまりに広くてどこを見ていいかわからなかった。そんな中でもキョロキョロしてるところは見られたくなくて、その子のかかとばかり見て部屋についていった。部屋にはその子だけのためのベッドや机があって、私はまた驚いた。驚いているのを気づかれたくなくて黙っていた。もちろん、ばれていただろう。

そして、すぐにおばあさんがおやつを「お盆に載せて」もってきてくれた。きれいにカットされたフルーツ、グラスに入ったジュース。テレビで見たような気もするが実際には経験したことも、想像したこともない状況だった。

必死で毅然とした態度でおやつを食べようとしたが、無理だった。鼻血を出してしまったのだ。

もともと何かというと鼻血を出していたが、よりによってこのとき鼻血がポタポタと、お盆の上に落ちた。そのあとのことは、あまり覚えていない。

どうやって片づけたのか、おやつは食べたのか、最後まで遊んだのか、すぐに帰ってきたのか、よく思い出せない。でも、家に帰る途中で道端で立ち尽くして泣いたことは覚えている。おかしなことだけれど、とても恥ずかしかった。涙じゃなくて鼻血が。

その後、我が家はワンルームだったことも、ツールームだったこともあった。あの頃雑誌に載っているモデルルームのような家を見ながら「いつかこんな家に住めたら」と想像したものだった。想像だけでも楽しかったし、想像だけで終わってしまうような気がして初めから意気消沈したりもしていた。

今、私はマンション暮らしだ。首都圏の郊外の小さなマンションだが、夫とお金を出し合って買った家で、部屋は3つもある。ベランダもある。

ときどき思う。過去に戻って幼い私に、鼻血がはずかしくて泣いていた私に、大人になったらこういう家に住んでいるよと言ってあげたい。そう言ったら、幼い私はその言葉を信じるだろうか? 信じてくれたらいいなと思う。

年末のバラエティ番組の授賞式で、父親たちが子育てに奮闘するリアリティー番組が大賞を受賞したという。出生率が低下している時代に、子育ての楽しさを伝えるのが、この番組が受賞した理由なのかもしれない。

でも私はこの番組を観ない。育児がほぼ全面的に母親にまかされている現実で、父親が子どもたちをケアするという理由だけで大衆の関心を集めるというのはどうにも納得がいかないというのが1つの理由だ。でも、それよりも大きな理由は、そこに出てくる家があまりに大きいからというのもある。

子どもたちもこの番組を観る。「セット」ではない、有名芸能人の実際に暮らしている家とそこに暮らす子どもたちを観る。これといって気にしない子どもたちもいるだろう。

でも、その家が夢の中のように大きい家に見える子だっているはずだ。その子はどんな状況でテレビを観ているだろう。

誰と観ているだろう? 両親と一緒に観ているだろうか? 一人だろうか? 何をしながら観ているだろうか? テレビが置かれているのはどこだろう? その子は画面の中の子をうらやましがっているだろうか? そこに映し出された現実は遠いところの話だからと気にしないだろうか? もし関係ないのなら、本当になんの関係もないだろうか? そんなことを思ってまっすぐ画面が観られないのだ。

今もテレビで世の中のことを学ぶ子どもがいる。主に、さみしい子たちがそうだろう。子どもも観られる番組なら、一番さみしい子を基準にして番組を作ってほしい。誠実で優しい子たちが勝つ姿を、一緒に遊ぶ楽しさを、さまざまな家族の自然な姿を、世の中の優しさを見せてあげられたらと思う。この世は素敵な家なのだと、子どもたちを安心させてあげられたらと思う。

テレビが夢を売っているというのはわかっている。でも華やかなものを見せなければならないなら、いっそのこと世界の美しい風景を見せてほしいと思う。ある家の広いリビングルームよりはずっと夢があるのではないだろうか。

「いや、先生が子どもの頃は、4人家族でワンルームに暮らしてたのよ。あとで一人1つずつ部屋がある家でも暮らしたけどね。そういうのは状況によって変わるものなの。文章も同じ。一段落しか書かなくても内容がきちんと整っていればいい文章になる」

なんてことのないような顔で、私はこう説明した。それから次のテーマを説明して書き始めるように言った。黒板に描いた家を消して、手を後ろに組んで子どもたちの周りを一周した。私のある部分が、今やっと大人になったような気がした。

関連書籍

子どもという世界(かんき出版)
韓国で20万部突破! 多彩な色を放つ子どもたちとのエピソード集。柔軟で、奇抜な発想で見慣れぬ世界と向き合っていく子どもたち。ちょっとした危険ならば勇敢にたち向かって冒険を楽しむ子ども、どこまでも愛情深くやさしい子ども、大人の間違いをはっきり指摘する子ども…。特別個性的な子どもたちのエピソードを集めたわけではない。大部分の大人が、なんとなく素通りしてしまいがちな瞬間を、つぶさに見つめて心を込めて記録した一冊。