「僕が世界一のお金持ちになったら…」8歳の少年が確信した希望に満ちた未来

キム・ソヨン
2023.08.24 13:13 2023.08.23 11:50

勉強に悩む女の子

ことを大げさに話したり、虚勢を張ったり、難しい言葉を使いたがったり…。かつての私たちもそうだったように、自分の気持ちに忠実に生き生きと話す子どもたちの姿は、懐かしく、まぶしくもあります。

韓国のベストセラー短編エッセイ集『子どもという世界』より、子ども独自の世界を優しい観点で切り取った一篇をご紹介します。

※本稿はキム・ソヨン著『子どもという世界』(かんき出版)から一部抜粋・編集したものです。

キム・ソヨン
児童書の編集者として長年働き、現在は読書教室で子どもたちと本を読んでいる。著書に『児童書の読み方』『話す読書法』(すべて未翻訳)がある。
Blog.naver.com/sohosays

先生はボールが怖いの?

笑顔の男の子

アラムがバスケットボール教室に通っていると聞いたとき、私は内心ちょっと驚いた。いつだったか、体育の時間のドッジボールが大嫌いで、ボールに当たるのが怖くて逃げ回るのも、すごく緊張するのだと不満をもらしていたからだ。

その時は私も必要以上に興奮して、「どうしてドッジボールをするのか」「本当にドッジボールは、子どもがボール運動好きになるのか」「そもそも運動にはなっているのか」「友だちとケンカするきっかけになってしまうのではないか」「今の私がボールの転がる音がするだけでも避けて通るような大人になったのは、もしかしたらドッジボールのせいだったのではないのか」などと少し長い意見を並べてアラムに同意したことははっきりと覚えている。

バスケットボールはもっと大きいし。当たったらもっと痛いだろうに。心配する一方で、どこかさみしい気持ちもしていた。私は、過去を思い出していると思われないよう、少し注意して尋ねた。

「ボール怖くない?」

するとアラムは、12年間の人生でそんな質問は、初めてされたような顔で聞き返した。

「怖い? ボールがですか? 先生はボールが怖いんですか?」

「ううん、今はそういうわけじゃないけど…昔は怖かったかな。でも、確か君もドッジボールのときボールが怖いって言ってたような気がして」

本当に自分の話なのか? というような表情でしばらく考えていたアラムはこう答えた。

「あ、ドッジボール! あれはボールを避けるものだからバスケットボールとは違うし。それに僕はドッジボールのときはちゃんとボール避けてますよ?」

ボールが怖いとか怖くないとかいう言葉を妙に避けた言い方だった。話はそこで終わらなかった。

手をつなぐ小学生

「いつだったかな、ドッジボールで僕が一番最後に残ったんですけど。あの時、だいたい20回くらい逃げ回ってたかな? みんな僕しか残ってないから、うちのチームはみんな応援してくれて、相手チームは怒ったみたいに投げてきたけど、ちゃんとそのボールをキャッチしたんです。あ、違う、キャッチしようって思ったんじゃなくてボールが来たからぶつからないようにしようと思って、よけようとしたときにガチっと受け止めたんです。今度はボールを返して、あれ、どこいったかなと思った瞬間、後ろからボールが飛んできて、右のかかとにぶつかって。こうやって振り返ったときにちょうどぶつかったから、はっきり覚えてます」

アラムは本当に20回以上もボールを避けたのだろうか。確かめるすべもないし、確かめる必要もない。アラムにとってはそれがかかとに刻まれた真実なのだろうから。

おもしろいのは、多くの子どもたちは、ドッジボールになんらかのエピソードを持っているということ。「最後まで残ってチームの勝利に貢献した」という子どもには会ったことがないが、「チームで最後まで残って」「飛んでくるボールを」「連続で何度も」よけた経験はよく聞く。

誰の話であってもこうした冒険談はいつだって興味津々になる。自分が主人公の話を聞かせてくれる子どもの、どこまでも真摯なまなざしのせいだ。その圧倒的な力強さのおかげでちょっと大げさに話しているのは確かなのに、決して疑問を挟む余地はない。子どもの「盛っている話」には無視することも、笑うこともできない魅力がある。子どもはちょっと誇張しながらも、自分の能力をちっとも疑っていない。

勉強する女の子

ハユンは11月のある日、合気道の道着を着て読書教室に現れた。寒いからココアを出してあげると言うとハユンがにこにこして「あ、私ちっとも寒くないです。冷たいのをください」と余裕を見せた。それでいて私が「もう秋も終わりだね…」と言いかけたら、すばやくさえぎって「もう冬です!」と言い返した。どうやら本当は寒かったようだ。

封を切っていないスナック菓子を手に「これ全然開かない!」と怒っている子どもたちに、私がハサミで切ってあげると言っても、誰もすぐには差し出さない。自分で開けられるんだと最後までねばる。ゆず茶のガラス瓶のふたが開かなくて私が苦戦していると、我先にとやってきて自分が開けてみせると言う。「ずっと前にお母さんがイチゴジャムが開かなかったときも、私が開けてあげたの」などと誇らしげに自慢しながら。

習いたての難しい言葉を使いたがるのも、子どもたちがちょっと見栄を張るときの典型的なパターンの1つ。

9歳のダウンはおばあちゃんの誕生日のお祝いがあった話をしながら「ほんとにすごい”ちごそう”でした」と言って私を戸惑わせた。”ごちそう”と言いたかったのだろう。アストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』シリーズにはまっているときは、ピッピが「馬じゃじゃ」とも言った。ダウンにとっては「じゃじゃ馬」なピッピが「馬」のように感じられたのだろうか?

難しい言葉を使いたがるのはイェジもしかりだ。イェジがフィギュアを買ったせいで「お小遣いがカラカラになった」と言ったときは、口調も自然だったせいで、すぐに直してあげられなかった。

でも、カラカラという表現がおもしろくて何度も思い出すのだった。もちろん、すべて使いきったという点ではスッカラカンになるのもカラカラになるのも同じようなものだし。幸い、イェジが子犬についてまた新しい表現を使ったときは訂正してあげられた。友だちの妹がいつも自分んちの犬を触るのが嫌なのだと話しているときだった。

「だって、私の妹が触るのだって嫌だからよかったものの、友だちの妹が触るのはもっと嫌だもん」

このへんてこな表現をどう直してあげるべきか悩んだが、私は「カラカラになった」失敗を思い出し挑戦してみることにした。

「イェジ、そういうときは、『私の妹が触るならまだしも、友だちの妹が触るのは嫌だ』って言うのよ。イェジの妹が触るのはまだよくても、友だちの妹が触るのは嫌だという意味で」

するとイェジは目をまん丸くした。

「えぇ? 私の妹が触るのも嫌なんですけど?」

「なるほど、じゃあ「まだしも」は使えないかな。『私の妹が触るのも嫌だけれど、友だちの妹が触るのはもっと嫌だ』って言わないとね」

イェジは結局「そうなんですか?」と言うと、まったく気にしていない様子で、でも不思議そうに、私の言葉を疑うような表情であいまいにスルーした。

手をつなぐ親子

大口をたたいて虚勢を張る子どももいる。未来に対して確信も持っていたり。

8歳のときハユンは世界一のお金持ちになったら、「地球の半分くらいの土地を買って農業をして犬も5匹飼って、猫も7匹ぐらい飼うんだ」と言った。その後、映画『ハリー・ポッター』シリーズのおかげでイギリスに興味を持つようになり、イギリス留学を夢見るようになった。するとハユンに大きな心配事が2つできた。

「1つは僕がオックスフォードに行くかどうか。先生、オックスフォード知ってますよね? オックスフォードに行くかケンブリッジに行くか、まだ決められないんです。それからもう1つは、あとでママとパパとお兄ちゃんが遊びに来たら、僕が韓国語を忘れて英語しか話せないかもしれないから心配なんです。先生に会っても、僕が英語しか話せないかもしれない」

その時に備えて私も今から英語を一生懸命勉強するし、お父さんもお母さんもお兄さんもそれは同じだと安心させつつ、私は笑いがこみあげてくるのを全力でこらえた。笑っては失礼になるほど、ハユンは真剣だったからだ。

ハユンはもうほとんどオックスフォード(またはケンブリッジ)のキャンパスの真ん中にいた。子どもの虚勢は真剣で楽観的だ。だから素敵だと思う。

そのうえ、そんなふうに虚勢を張ったおかげでハユンがオックスフォード(またはケンブリッジ)に行く可能性ができたのだ。想像すらできなければ、海を越えて留学になんか行けるはずがない。子どもが「話を盛る」のは1つの宣言なのだ。「ここまで大きくなるぞ」という宣言。

アラムと話したあと、私はバスケットボールを1つ買った。私もかつてはドッジボールで最後まで残っていて、誰にも負けないくらいいい仕事をしたことがあった。もう、ボールから逃げ回りたくはないとも思った。それに、大人だから「ボールを1つ買ってみる」という贅沢もしてみたかった。

土曜日の夕方、ショッピングモールでボールの入ったカバンを提げて歩いていると、もう気持ちは選手だった。思えば高校のときにバレーボールを手にして以来、初めて手にする「ボール」だった。

日曜日の朝に夫とボールを投げ合うことにしたが、寝坊している彼を待っていられなかった。一人でボールを持って公園の片隅で弾いてみた。腕にかなり力を入れないとボールは跳ねないようだ。ポン、ポン、気分のいい音だった。公園にバスケットゴールがないのが残念だった。それでもボール遊びはとても楽しかった。

あとになってこの話をしたところ、アラムが近所の運動場の中でバスケットゴールのある場所を教えてくれた。腕に力を入れることと、ひざを軽く曲げた姿勢をとるようにとアドバイスしてくれた。私も今まで子どもたちに教わったこともあるから、ちょっと知ったかぶって言った。

「ありがと。これで私もアラムみたいにバスケットボール選手だよ」

するとアラムはちょっと驚いて、こう言った。

「まだ選手3日目ですよね」

この日アラムと別れるとき、私はちょっとふざけて敬礼してみた。「先輩、よろしくお願いします」今度もアラムは笑わず、私の敬礼を敬礼として受け取った。アラムの後ろ姿がすっかり遠のいたのを確かめてから、「選手3日目」という言葉を思い出して一人声を出して笑った。

やっぱり子どもにはかなわないのだった。

関連書籍

子どもという世界

子どもという世界(かんき出版)
韓国で20万部突破! 多彩な色を放つ子どもたちとのエピソード集。柔軟で、奇抜な発想で見慣れぬ世界と向き合っていく子どもたち。ちょっとした危険ならば勇敢にたち向かって冒険を楽しむ子ども、どこまでも愛情深くやさしい子ども、大人の間違いをはっきり指摘する子ども…。特別個性的な子どもたちのエピソードを集めたわけではない。大部分の大人が、なんとなく素通りしてしまいがちな瞬間を、つぶさに見つめて心を込めて記録した一冊。