「カースト上位女子」が人をいじめる理由は? 他人へのイライラを手放す禅の考え方

石井清純監修,水口真紀子編著
2024.06.24 11:45 2024.06.24 11:30

女の子

いわゆる「クラスの一軍女子」が、「陰キャ」や「オタク」などに冷たい目を向ける……学校生活の中でよく見かけるシーンかもしれません。
思春期の子が他人に対して、過剰なイライラを抱えてしまうのはなぜなのでしょうか。

他人への負の感情を手放すための禅の考え方を、書籍『ZEN(禅)スタイルでいこう!』より紹介します。

※本稿は、石井清純監修、水口真紀子編著『ZEN(禅)スタイルでいこう!』(キーステージ21)から、一部抜粋・編集したものです。

女子ヒエラルキー。
弱い者いじめがやめられない承子の場合

まず、このクラスでは、とりあえず私が一番イケてるみたいだから、ピラミッドの頂点はいただきました。私と同率のカワイイ子はみんな他のクラスに行ったから、とりあえずライバルはナシ、ってことで決定~。

あ、陽向が視界に入ってしまった。ウザいあいつ、「お願いスます」じゃねーよ、マジキモいんだけど。幼稚園のときからボソボソ何言ってるのかわからないとこは全然変わんない。

毎日、パパの車で送り迎えしてもらってたところがイラつくんだよ。こっちは毎日長靴の父ちゃんと手をつないで通ってるのが恥ずかしかったっつーの。

「すげえな、あの子のおうちはBMWか。でもうちのトラックのほうがもっとでかいぞ!」って下品なしゃべり方するうちの父ちゃんと大ちがいじゃん。

参観日のたびに素敵なワンピースを着てくるママも腹が立つ。すれちがうときにフワッと高級そうな化粧品のいい香りがしてくるママ。

万年トレーナー&チノパンで、魚市場で働く生臭いうちの母ちゃんと並ばれるとホント困るんですけど、カンベンしてください。

そんな恵まれた家に生まれてるのに、いっつも自信なさげで暗くて、マンガばっかり描いてる。そんなに日陰で生きていたいなら、その「陽向」っていう名前を、私の「承子」っていうダサい名前と交換しろよ。

ムカつくからアイツの数学の教科書、ごみ箱に捨ててやろう。

ZENスタイルでいこう

承子さんに贈る禅語:「趙州狗子」

「趙州狗子(じょうしゅうくし)」
僧問趙州、狗子還有仏性也無。
州云、有。
僧云、既有、為甚麼却撞入這箇皮袋。
州云、為他知而故犯。
又有僧問、狗子還有仏性也無。
州曰、無。
僧云、一切衆生皆有仏性、狗子為
什麼却無。
州云、為伊有業識在。
――万松行秀『従容録』

(現代語訳)
ある僧が趙州和尚に質問した。「犬には仏性(仏としての本質)が有りますか?」
趙州が答えた、「有る」
僧がさらに問う、「ではいったいどうしてあんな犬の形をしているのですか」
趙州が答える、「犬は自分に仏性が有るとわかっていて、あえて犬の姿をしているのだ」
また、別の僧が同じように、「犬には仏性が有りますか?」と質問をした。
趙州は、「無い」と答えた。
僧がさらに問う、「一切衆生(すべての生き物)にはみな仏性が有ると『涅槃経』に書いてあります。どうして犬だけは無いとおっしゃるのですか」
趙州が答えた、「犬には積み上げられてきた迷いの心があるからに他ならない」

解説:まずは自分が仏であることに気づこう

机に伏せる少女

これは禅問答としてとても有名なものです。「犬には仏性(仏としての本質)が有りますか?」という弟子からの質問に、趙州和尚は一人の僧には「有る」、他の僧には「無い」と、相手によって回答を変えています。

どっちやねん! と突っ込みたくなりますが、禅問答とはそういうものです。質問した本人が「そうなんだ!」と納得できる答えが正解となるため、「これならマル!」という答えが、その都度変わるのです。難しい問答なので、ここからの解説も少々難しくなりますよ……。

2人の弟子の質問

『涅槃経』という仏教経典(お経)があります。禅の修行僧にとっては教科書や辞書のようなものでしょう。

それには「一切衆生には悉く仏性有り(すべての生きものは、すべて仏性を持っている)」と明確に書いてあります。なので、最初の僧の質問に「有る」と答えるのは、趙州和尚がまさに教科書通りの回答をした、ということになります。

さらにその僧が質問を続けます。「犬には仏性が有るというのに、なぜあんな毛むくじゃらな獣の姿形をしているのですか」と。

「なぜあんな姿なのか=なぜ人間の形をしていないのか」というのは、人間から獣を見下した意見ですね。この修行僧は、犬よりも人間のほうが立場は上だという優越感にもとづいて質問しています。

「すべての生き物には仏性が有る」という教えをまったくわかっていない勘違いの質問です。それを遠回しに戒めるように、趙州和尚は「犬はわかっていてわざとあの姿をしているのさ」と答えます。つまり「お前より上だ」と。

続いて別の修行僧が同じ質問をしたときには、「無い」と答えています。この修行僧からは「だって教科書に書いてあるのに、どうして師匠は無いと言うんですか!」と突っ込まれます。

それには「犬には迷いの心があるからだ」と答えて導きます。犬には代々積み上げられた迷いの心があるから、仏になることを遠慮しているのだ、と。

弟子は自分に向き合うべきだった!

この対話の内容だけを捉えると、わかったようなわからないような、中途半端で腑に落ちない感じがしますね。これで「フ〜ン、そういうことなんだぁ」で終わってしまうと、この禅問答から導き出される教えの本質を見失うことになります。

この二つの問答からわかることは、この僧たちがそもそも獣など、「自分以外のもの」の仏性の有無を、分析の対象にしてしまったことに誤りがあります。

禅には「自分自身の仏としての本質に気づく」という大命題があります。本来、この修行僧たちは自分の仏性と向き合わなければならない立場なのに、そもそもこんな質問をすること自体が、理解しなければならない道理に対して逆を向いてしまっています。

なので趙州和尚は、この二人の僧の質問に、ハナッから真面目に答えるつもりはありません。自分の質問の愚かさに気づかせようとしているのです。

「自分の仏性すら掴んでもいないのに、それを棚に上げて犬の仏性を問題にしてどうするバカタレが」と。

他人にムカついたら、まずは自分に目を向けて

学校の教室

たくさんの人間が集まる学校という場所には、どうしても好きになれない人や、腹が立つ相手の一人や二人いることでしょう。それは社会に出ても一緒です。どんな集団に所属しても、ソリが合わない人というのは一定数現れてきます。

ただ、そういう相手を排除しようと攻撃に出てもよいのでしょうか。そんなこと、誰にも許されてはいません。相手を傷つけてはいけないのは、「相手が仏様だから」というのはもちろんのこと、「自分も仏様だから」です。

どうしても腹立たしい相手がいて、攻撃したいという感情が現れてしまったら、まずは自分の存在のすばらしさに目を向けましょう。自分は他の誰ともちがう、すばらしい個性を持っており、この命は大昔からの「ご縁」によってもたらされたかけがえのない存在なのだ、と。この地球上において、自分の存在は絶対的に肯定されている、と信じましょう。

自分よりかわいい、勉強ができる、いいものを持っている、自分の美学や衛生観に反している。そんなくだらない理由で、相手だけではなく、自分の存在すらも卑下してしまっていてはもったいない。

そんな弱点すらも含めて、自分は仏であるという立場に立ってみましょう。自分の存在のすばらしさに気づけば、相手を排除する必要がなくなります。自分を含めてクラス全員がそれぞれに別の仏様だと思ったら、ちょっと学校生活が面白くなりそうじゃありませんか?

石井清純

石井清純

1958 年、東京都生まれ。駒澤大学仏教学部禅学科卒業。2000 年、スタンフォード大学客員研究員を務める。駒澤大学学長を経て、現在は駒澤大学教授、禅研究所所長。

ZENスタイルでいこう


ZEN(禅)スタイルでいこう! (キーステージ21)

10代の学生生活12ヶ月の悩みに、「禅」で説きます。
何千年、何百年と語り継がれてきた「禅語」には、この生きにくい時代、そして悩み多き世代の「考え方のヒント」が隠されています。
積極的「シンプル思考」を身につけて、上手に生きていこう、それが『禅スタイル』です。