「育てられへんかったら私が育ててあげる」難病児を産み、不安に駆られる娘を救った母の言葉
生まれつき重度の難聴をもつ牧野友香子さん。会社の経営者であり、2児の母として家族でアメリカで暮らしています。
牧野さんの長女は、50万人に1人と言われる難病を抱えて生まれてきました。出産直後、「育てられないかもしれない」という不安から救ったのは母と夫の言葉だったといいます。牧野さんのご著書『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』から一節をお届けします。
※本稿は、『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(KADOKAWA)より内容を一部抜粋・編集したものです
「育てられないかも」と言った私を支えたことば
長女を産んですぐ見た目でもわかったし、看護師さんとドクターがバタバタした雰囲気で、ちょっと抱っこしたらすぐに別室に連れていかれたので、「あ、この子病気あるな」と感じたんです。
ただ、珍しい病気なので、具体的にどんな病気なのかがなかなかわからなくて。複数の診療科に行って、いろんな診察を受けるための書類に大量にサインをした覚えがあります。
入院中なんて、ずーっと携帯で朝から夜中まで「骨が短い」「低身長」「難病」といろんなことばで検索したりして、げっそりして。正直、出産の喜びなんてなくて、「なんでうちの子なんだろう……」って毎日泣き崩れていました。
育てられるのかな、どんな病気なんだろうか、私たちも子どもの未来もどうなるんだろう……というのがずっと頭にありました。
子どもはNICU(新生児集中治療室)に入院していて、私は先に退院し、ボロボロのメンタルでバスと電車を乗り継いで病院まで母乳を届けに行っていたんですよね。ドーナツクッションを持ってバスに乗って、お股も痛いし、体もしんどいし、精神的にも肉体的にもこんなにつらいことって、これまでもこの先もない気がします。
皆が子どものかわいい写真とかをSNSに上げているのを見て、「なんで私ばっかりこんな苦労があるの!私にはこの子を育てられない、育てたくない!」とさえ思いました。本当はそんなこと思っちゃいけないって、理性ではわかっているんです。
でも、心から受け入れられる未来が来るなんて思えなかった。私自身、耳が聞こえなくても、努力したり工夫したりしながら前向きに楽しく過ごせていたのに、どうして私にばっかりこんな試練があるんだろう……。
周りの人たちは耳も聞こえて、苦労もせずに健康な子どもを産んでいて幸せそう。楽しく子どもを育てる、そんな当たり前の幸せすら、自分のもとにはやって来ないのか……。そして、「我が子を育てたくない」って思うなんて、私は人としてありえないのかも……。人として、母としてだめな人間なんだ……と、絶望の淵にいました。
そんな私を救ったのは、母と夫のことばでした。
夫は、泣きごとを言う私にずっと寄り添ってくれ、「子どもももちろん大事だけど、ユカコのことが何より大事だから、どんな選択をしてもいいよ。一般的に非難される選択だったとしても、俺はそれを最大限尊重するし、一緒に決めよう」と言ってくれました。
母は、「その気持ちわかるよ。お母さんまだ元気やしさ、ユカコが育てられへんかったら私が育ててあげる。私、ユカコで障害児2人目やからさ、大丈夫よ。泣いてもいいねん。育てられない、そういうふうに思ったっていいねんよ。そんなふうに思うなんて母親失格とか、自分を責めなくていいねん」と。
そんなふうに夫と母が私を受け止めてくれ、最悪の時の逃げ場を作ってくれたことで、「やれるところまでやってみよう!」と思えました。こんなことばをかけてくれる2人がいるなんて、めちゃくちゃ恵まれていたと思います。
もしこの時、「大丈夫!頑張って!」とか、「あなただから大丈夫よ。神様が選んだんだし頑張れるよ!」と言われていたら、心が折れていたかもしれません。
落ち込んだり前向きになったりの波があった日々ですが、6カ月が過ぎ、1歳を過ぎると、だんだん意思疎通もできるようになりました。すると、我が子がとってもかわいくなってきて、今ではもう目の中に入れても痛くないくらい娘のことを溺愛しています(かなり親バカです)。
でも、あのどん底は、経験した人にしかわからない闇なんだろうなと思っています。今でこそ、こうやって笑って話していますが、あの時は、自分が笑いながら子育てをしている未来なんてまったく見えず、つらくてつらくてマイナスのループに入る毎日でした。こういう時の親のメンタルケアをしてくれる場所が、日本にはまだまだ少ないなあと感じています。
障害児・難病児を持った親、みんながみんなその事実をすぐに受け入れられるわけでもないし、綺麗事では済まない現実もあると痛感した出来事でした。
この時の気持ちは、私の人生において一番ショックなことだったと思うし、この先きっと、これよりどん底に感じる出来事は、なかなか、そう起きないんじゃないかなと思うと、この先どんなことが待ち受けていても、命ある限りなんとかできるな!とも思っています。
先が見えず、してはいけないことだらけで途方に暮れる
当時の私がしんどいと思っていたことの1つに、「どうなるかの見通しが立たないこと」がありました。結果として長女は50万人に1人と言われる骨の難病だったのですが、あまりに症例が少なすぎて情報がまったくないんですよね……。ネットで調べても論文を見ても、全然出てこない。
「この子は歩くんだろうか?小学校に行けるようになるのかな?ことばは話すの?」といったことから、「知的な面や、運動発達はどうなるの?」という不安。半年先、1年先、5年先、10年先の見通しがまったく立たず、どうなるかわからないというのがつらかったです。
週に3〜4回は病院に通っていて、このままずっと病院通いが続くのかというのも心配で、途方に暮れていました(今となっては、「大丈夫!8年後にはだいぶ落ち着くから!」と、あのころの私に言ってあげたいです)。
しかも、難病がわかってすぐくらいの時に首の脊髄狭窄(せきずいきょうさく)が見つかって、「してはいけないこと」をたくさん言われたんですよね。「首に、ちょっとでも刺激を与えたら本当に首から下が全部麻痺して動かなくなるからね!!!抱っこをする時もとにかく首に刺激を与えないように本当に気をつけて!あと、抱っこ紐とかだめよ!首に負担かかるからね」と。
でも、赤ちゃんってそもそも抱っこすることがほとんどじゃないですか⁉なのに抱っこする時に首をとにかく気をつけてってどういうこと〜‼と思いながら、毎日ドキドキして横に抱っこして、神経をすり減らしながら生活していました。
そうそう、1回大事件がありました。生後3カ月くらいだったかな……。眠くて眠くて、私がソファーに長女を置いたまま、隣で少し寝てしまったんですよね。そのころはまだ寝返りも打てないので安心していたのですが、たまたま上にずりずり行ってしまったのか、ソファーから落ちたんです!
ごん!という衝撃を感じた瞬間、真っ青になって起きました。もう、あの時は生きた心地がしませんでした。手や足は動く⁉目は合う⁉と確認して、手足が動いたことで「本当によかった……」と。
そして、慌てて病院に連絡。ドクターには「えええ!!!!ソファーから落ちたの!?こわっ!!結果なんともなかったのは奇跡だよ!次から絶対気をつけてね!」と、めちゃくちゃ怒られたっけ。
そんな長女も生後4カ月で首の手術をして、無事に成功し、ひと安心。とはいえ、首の骨を削ったので、今でも不安定さは少し残っていますが、日常生活には支障がなくなりました。これが長女の人生1回目のかなり大きな手術でした。
「お母さん、仕事辞めますか?」「僕が専業主夫になります」
長女は常に病院に通うような状態だったのですが、その合間にみんなと同じように定期検診もありました。強く記憶にあるのは、6カ月検診の時。他の赤ちゃんもたくさん区役所に来るんですよね。
「みんなの赤ちゃんは健康でいいなあ……」という思いが、どうしてもぬぐえなくて。周りの赤ちゃんは寝返りしたり、健康そうなのに、我が子はいろいろ大変……。それを見るのもつらいし、その事実を突きつけられるのもつらい。
また、周りは遠慮して、長女の病気についても聞いてこないですし、かといって自分から言いまくるのも気を遣わせそうだし。
「検診になんて行きたくない、人に会いたくない」八方ふさがりのつらさでした。児童館などの人が集まる場所には、一度も行かずに終わりました。
私は育休を取っていたのですが、首の大手術も終え、そろそろ保育園のことや職場復帰を考えたいなと思うタイミングが来ました。当時住んでいたところはまさに保育園の激戦区。生後すぐに保育園を見学して、生まれた年の秋には願書を出さなくてはいけなかったのです。
そこで、医師に保育園のための診断書を書いてもらえないかと相談しました。
すると、「お母さん、仕事するんですか⁉」……えっ?
「この子は、難病があるから、どういう発達をするかわからないし、家で見てあげないと」……ええっ⁉保育園はナシなの⁉私、仕事辞めないといけないの⁉
いろんな思いが頭の中を駆け巡りました。
「えーっと、……そしたら、夫が仕事を辞めます」と、私の口がつい……。
突然そう言った私に、夫は「ええ!俺⁉」と言いながらも、「そうですね!僕が専業主夫になります」と言い切りました(この時ばかりは、我が夫に改めて惚れ直しました)。
すると先生はあわてて、「え、旦那さんが仕事を辞めるんですか?それは大変ですよね。ちょっと別の方法も考えてみましょう」と、一気に風向きが変わりました。
紆余曲折あったのですが、結果的に子どもを通わせたいと思える保育園が見つかり、そこに行かせていただくことができました。長女と次女と8年間お世話になったのですが、先生方には感謝しかありません。その保育園に通えたことは、本当にいい思い出です。
障害者も、障害児・難病児の親も、働きやすい世の中に
当たり前のように母親が仕事を辞めると思われていたことに、驚くと同時に残念な思いをしましたが、昔に比べるとその風潮は変わってきたと感じます。とはいえ、障害児・難病児の母親は育児や療育に専念すべきという考えはまだまだ根強くあるような気がします。
そして、社会のサポートが整っていないことも痛感しています。また、障害者本人がバリバリ働いて家計を担うことに関しても、理解が得られないことが多いと感じています。
私が立ち上げた「デフサポ」では、親が仕事を辞めずにサポートを受けられるようオンライン教育や通信教育を進めていますが、”世間の目”に悩む親御さんは多くいます。デフサポとして、また難病児の親として、そんな空気も少しずつ変えていけたらいいなと思っています。
実は、デフサポとは別に、「株式会社MASSDRIVER(マスドライバー)」というマーケティングの会社を夫と一緒に立ち上げています。この会社では、オンラインで自由な時間に働くことができるような体制にしているため、障害児や難病児を持った親御さんや、障害当事者も採用しています。シングルマザーもいます。
もちろん、あくまで株式会社なので”どんなスキルを持っているか?”が大事ですが、障害者本人や、家族に障害者がいる、いないにかかわらず、できるだけ誰もが働きやすい世の中になるように少しでも貢献していけたらと感じています。その根底には、私たち夫婦が難病児の親であり、私自身が障害当事者ということがあります。
『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(牧野友香子著/KADOKAWA)
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