「慶応以外認めない親」に耐えかね、入試当日に受験拒否…大人になった今思うことは

宮本さおり

中学2年で退学へ

「とにかく宿題が多かったんです。小テストも頻繁で、小テストで点数が悪いと居残りになり、その単元の学習をまたやるのですが、ずっと勉強ばかりしてきた私にとっては苦痛でしかありませんでした」

幼稚園の年長からずっと“受験“という文字を背負って生きてきたような明子さんには、学ぶ楽しさよりも苦しみのほうが勝ってしまったのだ。

「自由になりたい」

明子さんの頭にはつねにこの言葉が出てくるようになっていた。中学2年もあと数カ月で終わるという頃、明子さんの足は学校には向かなくなっていた。

「当時の自分が何を考えていたのかわからないのですが、とにかくなんとなく、“自由になりたい“という気持ちがあったことだけは覚えています。制服を着て学校に行くふりをして、渋谷からひたすらバスに乗ってみたり、山手線に一日中乗ってみたりしていました。

部活はやりたかったので、部活の始まる時間に登校する生活を数日続けていたら、すぐにバレてしまい、親も呼び出しになりました。それからは、まるでダメで。登校して教室に入ろうとすると過呼吸みたいな症状が起こって。先生ももうこの生徒はうちの学校には向かないなと思ったと思います」

慶應の付属校に通う兄は、

「なんでそんなに反抗するの。意味ないよ」

と投げかけてきた。そんな兄に対しても当時の明子さんは反抗的だった。決まって、

「幼稚舎しか受験をしたことがないくせに、お兄ちゃんには私の気持ちなんかわかんない!」

と言い返していたという。

「一種の反抗期だったのでしょうかね……」

大人になり、そう振り返る明子さんだが、明子さんは反抗期で学校に足が向かなかったのだろうか。わがままで学校をサボっていたのだろうか。彼女が求めてやまなかった「自由」とは何だったのか。

子どもの成長の過程には二つの「じりつ」があると言われる。一つは、経済的、生活技術的、身体的な「じりつ」を指す「自立」であり、将来親に頼らずとも生きていけるようになることだ。そこまでが親の義務だという考え方に使われるのはこちらの「自立」だ。

そして、もう一つは、より内面的なことを指す「自律」。こちらは自分らしさや自分の価値観、信念をもって自分で決めたことに従うことができることを指すという。気になって三省堂の『新明解国語辞典』を引いてみると、「自分で決めた規則に従う(従い、わがままを抑える)こと」と書かれていた。はたして、明子さんに自分の意思をもつ自由があっただろうか。

「慶應に入ること」を目標に決めたのも明子さんではなく親だった。中学受験の出願校を決めるときも彼女の意見は聞かれていない。自分の定めた目標ではなく、親が決めた目標に向かってただただ努力を求められた。親から与えられた目標は親の目標でしかないのだが、親の望みは何かを忖度したのか、彼女が塾通いを嫌がることはなかった。

彼女は「自律」するチャンスのないまま、多感な思春期を迎えたのだ。

結局、「慶應」というゴールに向かって敷かれた難関進学校というレールからはずれ、中学2年の3学期、地元の公立中学へと転校した。明子さんはその後、制服のない都立高校へ進学、大学の看護科へ進み、看護師となった。

「今でも家族の集まりのときは慶應の話が出ますけれど、もう自分を惨めに感じることもなくなりました。むしろ、あそこしか知らない親族の人たちよりも、私はたくさんの世界を見られてよかったなと。結婚相手も絶対に慶應の人はよそうと思うくらいでした」

結婚し、子どもも授かった明子さんは自身の子どもの小学校受験は考えていないという。

「私は合格しなかったので、もう、その重荷を背負わなくてもよくなりました。それに引き換え兄のところはかわいそうだなとさえ思います。“幼稚舎受けるんでしょ?“と盛んに聞くうちの親を見ると、お嫁さんは大変だろうなと。プレッシャーだろうなと思うんです」

“慶應“の2文字から、自らの力で抜け出した明子さん。解放され、自由を手に入れた明子さんは、自分らしい幸せを手にしていた。

中学受験のリアル

宮本さおり著『中学受験のリアル』(‎集英社インターナショナル)

急増する中学受験生、「全落ち」などの厳しい現実…。
「合格体験記」には書かれないドラマを追って、15組の親子を取材したノンフィクション。

首都圏の中学受験者数は2023年、過去最高を記録した。東京・神奈川・千葉・埼玉の1都3県では、18パーセントの子どもたちが受験を経験し、熱は地方にも波及している。中・高一貫校への人気が高まり、子どものために移住するケースもみられる。一方、第一志望校に合格する子どもの数はわずか3割。負け戦とわかっていても中学受験へと向かわずにはいられない親子。まだ幼さの残る小学生の彼らが立ち向かう受験という魔物。

「全落ち」を経験する子どもは立ち直れるのか? 親のエゴや塾の実績づくりで志望校を決めていいのか? 偏差値では測れない、子どもに合った学校とは? 中学受験に挑んだ親子を5年間追い続けたルポルタージュには、きれい事では終わらない中学受験のリアルがある。