理科の実験で「見えたふり」をしていた少年のその後 車椅子のお笑い芸人・布ちゃんが上智大学へ進学するまで【前編】

吉澤恵理

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2024年9月1日結成の吉本興業所属コンビ、カカトオトシの布ちゃん(23)は、生まれつき全身の筋肉が弱い「先天性ミオパチー」を抱えながらも、M-1にも挑戦するお笑い芸人さんです。家族の愛情に支えられ、背骨にチタンを入れる大手術を乗り越え、上智大学への推薦合格を果たすまでの道のりを伺いました。(取材・文/吉澤恵理)

「兄とは違う」という認識はあったけれど

2024年9月1日結成の吉本興業所属コンビ、カカトオトシ。お笑い界の新星として注目を集めるこのコンビは、布ちゃんとバクチオールなんとうの二人。

布ちゃん(23)は、生まれつき全身の筋肉が弱い「先天性ミオパチー」を抱えながらも、多くの舞台に立ち、M-1にも挑戦しています。

自らの人生に果敢に挑み、障害を制限ではなく可能性として歩んでいます。布ちゃんの23年間はどんな道のりだったのかを聞きました。

――先天性ミオパチーという病気を、いつごろ意識するようになりましたか?

気づいた、というより、生まれつきそうだったので、最初から自分の中にあるものとして受け止めていました。僕には兄がいて、兄は健常者、いわゆる障害がない人です。だから「自分は兄とは違う」という認識は幼いころからありましたが、それを特別に意識したり、ショックを受けたりということはありませんでした。

――病名を知ったのはいつですか?

詳細に聞いたのは、正直わりと最近で、大学に入ってからです。今は23歳ですが、それまでは「全身の筋肉が弱い病気」という程度しか知りませんでした。

この病気自体も、本当の原因はまだ解明されていなくて、事例が少ない難病です。正直、親もそこまで詳しい知識を持っていなかったと思います。

母から聞いた話では、生まれたときに足が強く曲がったままの状態で、筋肉にぐっと力が入った状態だったそうです。そのため、出産直後から「なにか障害があるのではないか」と医師に言われていたと聞いています。

背骨にチタンを入れる大手術

――必要に応じて治療はありましたか?

風邪をひいて悪化すると痰が出ますが、僕は痰を押し出すための筋力も弱いので、大きな病気に発展しやすく、普段から注意が必要でした。

また、全身の筋肉が弱いため、頭の重さを支えきれず背骨が曲がっていく「側弯(そくわん)」が進行しやすいんです。小学校低学年のときに肺炎になった際、背骨が片方の肺に迫っていて、このままでは肺を圧迫してしまう危険があると診断されました。そのため、骨が横に曲がるのを防ぐ目的で「脊椎固定術」という背骨にチタンを入れる手術を受けました。これが病気に関する治療としては一番大きなものでした。

――ご両親はどんなふうに接していましたか?

特別に扱われることは、あまりなかったと思います。親は、僕を他の子どもと同じように愛してくれていました。「愛された」というと少し大げさかもしれませんが、普通の家庭と同じように接してくれていたと思います。

家には、肩の力の抜けた安心がありました。僕も家族への強い信頼があり、安心して毎日を過ごしていました。

「見えたふり」をしていた理科の実験

――周りの人からすると「大変だったのでは」と思われることもあると思います。気持ちの面では、特につらいとか深く悩んだことはあまりなかったのでしょうか?

そうですね。小学校までは、あまりそういう気持ちはありませんでした。

僕は現在は電動車いすですが、昔は手動車いすで生活していました。

障害については、生まれつきとはいえ「障害受容」という面でいうと、自分の障害を完全に受け入れる段階には、まだ到達していなかったと思います。

そのため「周りの邪魔にならないようにしよう」という気持ちが強く、今も少なからず残っています。

例えば理科の実験では、理科室の机は車いすの目線からすると高く、顕微鏡も立たないと見られません。微生物を観察する授業のときも、みんなが順番に見せてくれるのですが、実際にはよく見えていないこともありました。それでも「見えたふり」をしていました。

自分のためにクラス全体の時間を奪うことが申し訳ない――車いすの僕ごときが、という意識がとても強かったのですね。

――その遠慮する気持ちは、ご自身の胸の内のことで、友人関係はよかったですか?

はい。休み時間になると、みんな僕の机に集まってくれて、友達もたくさんいました。周りの友達も、車いすの僕に自然に接してくれていたので、とても楽しく過ごせました。

小中は、近くの公立校でみんなずっと友達という感じでした。

高校最初の半年、友達ができなかった

――高校で環境は変わりましたか?

長崎市にある高校に進学しました。勉強は英語や文系科目が好きで、わりと真面目に取り組んでいたおかげで、上智大学に推薦合格することができました。

ただ、高校入学から最初の半年くらいは、なかなか友達ができませんでした。中学までは友達とワイワイ過ごしていただけに、そのギャップがつらかったですね。

――最初の半年ということは、克服できたんですか?

はい。自分から積極的に話しかけるようにしました。たとえば「数学の問題が解けないから教えて」と声をかけるなど、きっかけを作るようにしました。

やがて、休み時間になると友達のほうから僕のところへ話しかけに来てくれるようになりました。僕は車いすで教室内を自由に動き回るのが難しいため、それまでは自分から人の輪に入りに行くのが大変でした。動くときに周囲の邪魔になるのではという感覚もあったので、友達が自然に集まってくれるようになったのは、とても嬉しかったです。

後になって知ったのですが、周りのみんなも最初は車いす自体に慣れておらず、どう接していいのかわからなかったようです。

――その後の高校生活は充実しましたか?

ああ、そうですね。学校生活はかなり充実していました。

思い出として特に大きいのは、生徒会活動です。副会長を務め、文化祭では実行委員長のような立場で運営に関わりました。また、長崎市では毎年8月9日に平和集会が行われますが、その進行役やリーダー的な役割も任されました。被爆者の方々のお話を伺い、平和について考える貴重な時間を多くの生徒と共有できたことは、とても印象深い経験でした。

※後編では、兄の言葉に背中を押されて上智大学へ進学した布ちゃんが、ラランドを輩出したお笑いサークルと出会い、芸人の道を選ぶまでをお聞きします。