韓国発の小説が問いかける「16歳のシングルマザーは自己責任?」
「子どもが赤ちゃんを産んだ」
宝石のように光り輝いていた母の決意は、ほどなくして生計という分厚い壁にぶち当たった。たかだか16歳の少女が生まれたばかりの赤ん坊を連れてできる仕事はなかった。
2時間おきに授乳しなければならない赤ん坊を連れていては、厨房で皿を拭く仕事さえ不可能だった。赤ちゃんを守りたい一心で家族ともきっぱり縁を切ってしまっていた。
そんなとき、母はふと、支援施設で手作りしていたアクセサリーを思い出した。そして名刺に書かれた講師さんの電話番号に連絡をした。いくつかの言葉が交わされたのち、母は施設から補助金としてもらったわずかなお金で材料を買い、自分でアクセサリーを作り始めた。
サンプルをいくつか講師さんに送ると、思ったよりよい反応が返ってきた。最初は完成品を納品するかたちで始めた。そのうちにホームページを作って作品を順次アップしてみた。熱い反応が寄せられた。今すぐ買えるか、入金するから商品を送ってもらえないかという要望が相次いだ。
母のハンドメイドアクセサリーのオンライン販売はこうしてスタートした。
明け方になると、ぼくは母の背におぶわれてアクセサリー副資材市場を縦横無尽に飛び回った。幼い子どもをおぶって商人を相手にしつこく値切っていた母の姿が目に浮かぶ。だれ彼の別なくみんなが幼い母に余計なひと言を言った。
「子どもが赤ちゃんを産んだ」「子どもが赤ちゃんを育てている」と。歳月が流れ、その子どもはいつの間にか30代半ばになった。その子どもにおぶわれていた赤ちゃんは17歳のすらりとした高校生に育った。
小学3年生くらいだったと記憶している。ある日、友だちと遊んでいると買い物帰りのその子の母親がじわりじわりと近づいてきた。もう家に帰るよというサインだ。友だちがバイバイと手を振り、母親と一緒に背を向けた。
ちょうどそのとき遠くからひとりの男がかけ寄ってきて、友だちの母親が手にしていた買い物袋を奪うようにして持った。その人がだれなのかは聞かなくてもわかった。たった今仕事から帰ったその子の父親だ。
習慣のように母のことが頭に浮かんだ。母が重いものを持つとき、あんなふうに代わりに持ってくれる人がいたらいいのに、と。重い荷物もつらく困難な問題も、母にとっては全部ひとりで背負うものだから。
母がつらいとき、そばで守ってくれる人はいなかった。弱くて力のないぼく以外には。だけど、そのころのぼくには母のためにできることはなにもなかった。
父親が欲しいと思ったことは一度もない。そういう存在なしでも母と生活することにまったく問題がなかったからだ。ぼくらはけんかをしながらじゃれ合う姉と弟のように、かけがえのない親友のように過ごしてきた。
時間がたつにつれ、ぼくらの絆きずなは強まりすぎて、役割があべこべになることもあった。まあ、母親と息子が担うべき役割は必ずしもこれだと交通ルールのように決まっているものでもない。
最新のおもちゃを手にすることはできず、自転車やキックボードに乗ることもできなかったが、それでもぼくは大丈夫だった。
母と作って食べるジャージャー・ラーメン(インスタントのジャージャー麺とラーメンを混ぜ合わせ、炒めた肉や野菜を加える手軽なアレンジ料理)ひと皿で幸せだったし、夏休みや冬休みになると母と手をつないで副資材市場を回るのも楽しかった。市場の人たちがくれるおこづかいとお菓子が欲しかったからでは絶対ない。絶対に。
しかし、母が体を壊したときや経済的なことで大変そうにしているとき、幼いぼくは悩んだ。母を病院まで連れていき、母が苦しまないようにそばで守ってくれる人にいてほしかった。
そしてその思いは今なお現在進行形だ。ぼくの父親としてではなく、母のパートナーとしてだれかが現れてくれることを願っている。けれどもそれは、母が恋愛や結婚を望んでいる、ということでは決してない。
ぼくがこの世に産声をあげた瞬間から今日まで、母は一日が48時間のように生きてきた。もしかするとチェ・ジヘさんにとっては寂しがることさえぜいたくだったのかもしれない。
だからなおのこと願っているんだ。母がもっと年をとる前に、心がほっと温まる恋愛というものをしてほしいと。
人々は差別的な目で見ることを一向にやめない
「ほら、もう帰っていいぞ。夕飯用にチャーハンでも一人前、詰めてやるか?」
「大丈夫です」
「お前なあ、しっかりしてるのはいいが、きっちりしすぎなんだよ。たまには愚痴ったり適当にさぼったりしないと。隙ってものがまったくないじゃねえか。度が過ぎるのも気味が悪いんだぞ。ときには不平不満をこぼして、大人に頼って、そうすりゃ情も湧くってもんだろうが、この野郎」
おじさんの話はもっともだ。ぼくはきっちりしている。おじさんはときどきバイト代を本来の時給より多めにくれたりするが、そういう月はお客さんが多かったということだ。
客が多かろうと少なかろうと時間内だけ働く約束になっている。客が多かったからとバイト代を上乗せするなら、客がいなかったときは減らしてもいいということだろうか。きっちりしているぼくと違い、おじさんはいつも時給計算があやふやだった。
でもぼくは正確な時給以外の全額をレジの金庫に戻しておいた。多くもなく少なくもなく、働いた分だけをきっかり受け取りたかった。他人から余計な厚意を受けるのがいやだった。
他人にいかなる被害を与えることもいやだった。ひたすら目立たないように、静かに生きたかった。同じ過ちを犯しても、人々はぼくに異なる視線を向けるからだ。ぼくを見て、あるいは母に向かって「ほら、やっぱり」とだれにも言わせてはならなかった。
できる限り、与えられた仕事にベストをつくそうとした。波風が立たないように、取り立てて問題になることがないように、一日一日をただ真面目に過ごしたかった。
しかし、いくら世の中が変わり、社会が変化しても、人々は差別的な目で見ることを一向にやめなかった。依然として多くの者が、シングルマザーとひとり親家庭にはなにか問題があるのではないか、という冷たい視線を送る。
思うよりもはるかに多くの人が”違い”と”間違い”を同じものとしてとらえているのだ。
ぼくはほどいた前掛けを壁にかけた。バンダナを外し、お手洗いで顔を洗った。一日じゅう強い火の前をうろちょろしたから頭の中まで煮えきった気分だ。バンダナでつぶれた髪はぬれた手で適当にかき上げた。