「いい子だね」と子どもをほめるのは本当に正しい? 親は考えるべき「善良さ」の意味
ときに、子どもたちが発する無邪気な言葉にハッとさせられたり、考えさせられることがあります。
韓国でベストセラーとなった『子どもという世界』は、子どもに向けた読書教室を営む著者が、そんな子どもたち特有の言動をやさしい眼差しで紡いだ短編エッセイ集。その中から一篇をご紹介します。
※本稿はキム・ソヨン著『子どもという世界』(かんき出版)から一部抜粋・編集したものです。
キム・ソヨン
児童書の編集者として長年働き、現在は読書教室で子どもたちと本を読んでいる。著書に『児童書の読み方』『話す読書法』(すべて未翻訳)がある。
Blog.naver.com/sohosays
「いい子」ってどんな子?
お茶の時間にハユンが言った。
「昨日友だちと公園で遊んでてね、友だちがお母さんにお使いを頼まれたんです。5000ウォンもらって、そこのスーパーで買い物してきてほしいって。それで向かってたら友だちが急に『このお金って一番最初は誰が作ったんだろ?』って言って。だから僕も一緒に考えてみたんです。
でもいくら考えてもわからなくて。そのとき突然パっと思い浮かんだことがあって友だちに言ったんです。『明日読書教室があるんだけど。先生は本をたくさん読んでるから多分知ってると思う。それにもし知らなくても先生が本を読んで調べて教えてくれるはずだ』って」
いいぞいいぞ! 今までの努力が実を結んでるというもの。子どもたちに見せたいものがあった。そう、大人だって本を読むということ、大人だって知らないことがあれば勉強するんだっていうこと。ちゃんとそれが通じてたんだ。
ハユンも確信があったからこそ、あそこまでお友だちに断言できたのだろうし。そう、大人も本を読む。本を読む人は素敵だ。それが私だ…。私も知らないうちに非論理的な自画自賛回路に入り込んで、論理的な結果を出して、ちょっと鼻が高くなった。
「そう? それなら先生が説明してあげるね!」
9歳が理解できるようベストを尽くして、それから私が知的に見えるようにもベストを尽くして、人類の狩猟採集時代や農耕時代について話した。それから「過剰生産物」と「物々交換」を説明する番になった。
「そうやって農作業をしているうちに、ついに! 必要なものよりももっとたくさん生産できるようになったの。村中ですべて食べても余るほど! さて、そうなると今度はどうしたらいいかな?」
ハユンはまったく躊躇せずに答えた。
「分けてあげる!」
それ以外の答えなどあるはずがないと確信した顔だった。こんな素朴なハユンに経済論理を説明しようとしたものの、私は突如心の中が真っ黒な大人になった気分だった。ちょっと前まではとても素敵な大人だったのに。子どもはどうしてこんなに善良なのだろう。
でも私はハユンにいい子だねと言う代わりに「お、それもいい考えだね」と答えた。子どもに「いい子だ」という表現を使うときはいつも慎重になるからだ。
私は、子どもに「いい子だ」という表現はあまり使わないようにしている。優しい心で生きていくには、この世はあまりにも”せちがらい”からでもある。だからこそ、いい子だという言葉が、弱いという言葉のように聞こえかねないからでもある。
もっと大きな理由は、子どもたちが「いい子にならなければ」と思うのではと心配になるからだ。いい子だ、というのはどういう意味なのだろう? 辞書には「言動や心がけが美しくて正しく、優しい」と説明されているが、実際にそういう意味で使われているのかはわからない。
それよりも、大人の言うことに逆らわない子どもに、いい子だね、と言うほうが多いような気がする。それじゃ子どもにとってのいい子というのは、階層的な表現になってしまわないだろうか。
私とは違って、子どもたちは「いい子」という言葉をためらいなく使う。主に友人について説明するときなどがその例だ。そういうとき私は決まって「そのお友だちのどういうところを見ていい子だってわかるの?」と聞いてみる。
答えはだいたいこうだ。「何か貸してほしいと言うと貸してくれるから」「ほかの子とケンカしないから」「やりたくないこともちゃんとやるから」。ときには「しっかりしてる」と答える子どももいる。
おもしろいのは、自分をいい子だと言う子どもはあまりいないということ。自分自身も、お友だちに必要なものを貸してあげたり、仲良くしたり、ときどき率先して模範になったりしているというのに。
謙遜しているのだろうか? それよりも「いい子」という言葉の持つ力が強すぎて、なかなか手を出せないでいるような気がするのだ。そしてこの言葉は、他人から言われて初めて意味があるということを子どもたちも知っているからだ。「いい子」という言葉には、「他人の評価」が入る。この時の「他人」とは主に大人たち。両親、先生、サンタクロースといった…。
「いい子」なのは悪いことではない。ただ、「いい子」にならなければと思うあまり、大人の要求を断れない子どもを注意深く見守る必要がある。よく知られているように、子どもを相手にした犯罪は、子どもに助けを求めるふりをして始まるケースが多い。
見失った犬を探すのを手伝ってほしいだとか、荷物を運ぶのを手伝ってほしいといった具合に、子どもの善良さを利用して子どもを誘引する犯罪を耳にすると、頭が火を吹きそうになる。悲しく恐ろしいことだが、家庭でも似たようなことが起こる。両親をがっかりさせないようにと、いい子になろうと無理をして傷ついている子どもたちが常にどこかにいる。
そうだからといって、子どもたちに、いい子にならなくてもいいとは言えない。ハユンの顔をまっすぐ見つめながら「そういうときには分けてあげちゃダメなんだよ!」とも言えない。友だちを助ける子どもに「君が本当にそれを望んでるの? ほんとにほんとに本心?」と問い詰めることもできない。どうすればよいかわからず、私は子どもの善良さが心配になっていた。イェジとの授業の前までは。
イェジは『人 百科事典』(※メリー・ホフマン著、ロス・エスキース絵、イ・ヒョソン訳、『人 百科事典』、パルグンミレ)を読んで話をしているところだった。
事前に出しておいた宿題は「この本の絵をすべて見てくること」だった。『人 百科事典』は人が生まれてから死ぬまでの身体の変化とその影響などを教えてくれる知識絵本だ。
障害のある子が補助器具を使ってスポーツの試合を楽しむ絵があったり、さまざまな体形と身体状態を絵でもって教えてくれるところがいい。だからイェジにすべての絵をくまなく見てくるようにと言ったのだが、イェジは宿題をちゃんとやってきていた。
「この本に出てくる人たちって、みんないろんな人。いろんな姿で」
「そうだね。著者がどうしてそういう絵を描いたのか考えてみようか。こういう絵を描いて何を伝えたかったんだろうね? そういうのをテーマともいうんだよ。テーマを探してみようか」
「うむ…お互いに身体の形が違ってもバカにしないようにしよう?」
「それもいいね。でも普通は『何かをしないようにしよう』よりも『何かをしよう』と言ったほうが他人を説得するときにはいいのよ。イェジが興味を持ってる環境運動に当てはめてみるとわかるかな。『紙コップを使うのはやめよう』よりも『自分のコップを持ち歩こう』のほうが効果的でしょう?」
そう言いながら黒板に「お互いの身体が違っても、〇〇しよう」と書いた。内心「尊重しよう」という言葉が出てくるのを期待しながらイェジの答えを待っていたが、すぐには答えられなかった。
「イェジ、そういうときは『バカにする』の反対の言葉を思い浮かべてみるといいよ」
「あ! わかった!」
唯一の答えだとでもいうように、イェジはこう書いた。
「お互いの身体が違っても、一緒に遊ぼう」
イェジの答えに心が熱くなった。それでも「尊重」について教えたい一心でもう一度チャンスを与えた。イェジは今度はこう書いた。
「お互いの身体が違っても、歓迎しよう」
再び胸にこみ上げるものがあった。2つの文章の横にそれぞれハートを描いて、小さく「尊重しよう」と書き込んだ。この日は授業を終えてもどうしても黒板を消すことができなくて、しばらく眺めていた。そしてふと気づいた。
「分けてあげる!」は「美しくて正しい言葉」で「一緒に遊ぼう」「歓迎しよう」は「優しい心」だ。辞書に出ている通りだ。子どもは善良だ。善良な心にはなんの罪もない。
大人の私がやることは、「いい子」が心を許して生きていける世界を作ること。悪い大人をやっつけるよい大人になる。頭から火が噴いて腹わたが煮えかえっても諦めない。
不思議なことだ。本は私のほうが子どもたちよりたくさん読んでいるはずなのに、どういうわけか毎回子どもたちから学ぶのである。
関連書籍
子どもという世界(かんき出版)
韓国で20万部突破! 多彩な色を放つ子どもたちとのエピソード集。柔軟で、奇抜な発想で見慣れぬ世界と向き合っていく子どもたち。ちょっとした危険ならば勇敢にたち向かって冒険を楽しむ子ども、どこまでも愛情深くやさしい子ども、大人の間違いをはっきり指摘する子ども…。特別個性的な子どもたちのエピソードを集めたわけではない。大部分の大人が、なんとなく素通りしてしまいがちな瞬間を、つぶさに見つめて心を込めて記録した一冊。