人前での緊張を和らげる「安心問答」とは? 10代に伝えたい禅の言葉

石井清純監修,水口真紀子編著
2024.06.11 11:00 2024.06.20 11:50

落ち込む女子中学生

クラスメイトの前で自己紹介をしたり、何かを発表したり…学校生活では、人前で話す機会がたびたび訪れます。得意な人なら問題ありませんが、苦手な人にとっては苦痛でしかありませんよね。

こういった場面で人一倍緊張してしまう10代に知ってほしいのが、「安心問答」という禅の言葉です。

書籍『ZEN(禅)スタイルでいこう!』より、10代の悩みに寄り添う禅の言葉を、中学生たちのストーリーに沿ってご紹介します。

※本稿は、石井清純監修、水口真紀子編著『ZEN(禅)スタイルでいこう!』(キーステージ21)から、一部抜粋・編集したものです。

新学期開始!
自信が持てず、友達ができるか不安な陽向の場合

クラス替え後の恒例、みんなの前で自己紹介……。誰も私になんか注目してない、っていうのはわかってる。 それでも、どうしても自分の番が近づくにつれて手が震えてくる。顔が赤くなって、頭は真っ白で、目の前は真っ暗になる。毎年毎年、オドオドしてるうちに名前だけを言うのが精いっぱいで、何を話してもシドロモドロ。

はい、この点においては三年生になっても、まったく成長できておりません、申し訳ない。 毎年、四月の始業式は、同じ気持ちで門をくぐるんだよなぁ……。

「それでは、新しいクラスになったことだし、この辺でみんなに自己紹介をしてもらおうかな。自分の名前と、趣味、そして三年生の目標かな!」

なんで先生は笑ってるの!? これが私にとってどれだけ苦痛なことか! 趣味らしい趣味なんてないし、後ろ向きな目標なら挙げればきりがない。そもそも誰も私みたいな暗いオタク腐女子に興味なんてないよ……。 死刑執行までの時間は刻々と近づいてくる。緊張で吐きそう。どうしてみんな自信たっぷりにウケを狙ったり、カワイイ顔とかできるの?消えたい……。

きた。私の番だ。ええい、まな板の上に乗ってしまえば、あとはトドメを刺されるまでよ。 「藤原陽向です……。しゅ、趣味は……、アニメです。目標は……友達を作ることです……。よろしくおねがいス・ます……」 マズイ。また噛んでしまった、緊張すると出ちゃう悪い癖。

死刑執行。漏れる失笑。しかも自分で執行した気がする。女子ヒエラルキー1位の承子ちゃんが鼻でフンッって笑ったのが聞こえた。

ZENスタイルでいこう

陽向さんに贈る禅語:「安心問答」

「安心問答(あんじんもんどう)」
二祖云、
某甲心未安。乞師安心。
磨云、将心来。与汝安。
祖云、覓心了不可得。
磨云、為汝安心竟。
――圜悟克勤『碧巌録』

(現代語訳)

達磨に向かって弟子の慧可が言った。
「私は心が不安でなりません。師匠、どうか私の心を落ち着かせてください」
達磨が言う、「その不安な心を取り出してみよ。そうしたらお前のために落ち着かせてあげよう」
慧可が言う、「心を探し求めましたが、結局取り出せません」
達磨が言う、「これでもう、私はお前の心を落ち着かせたよ」

解説:心とは、実体のない自由なものである

学校の廊下

入学したばかりの一年生はもちろん、新学期でクラス替えがあると、最初のホームルームで自己紹介をすることがありますね。どんな子がいるのかなぁと、みんな興味津々です。

人前でしゃべるのが得意な子は上手にウケを狙ったり、理路整然と話したりもできるようですが、苦手な子は、こちらが気の毒に思ってしまうくらい緊張しています。

うまく話せなかったらどうしよう、変なヤツだと思われたらどうしよう、友達ができなかったらどうしよう……。その新学期特有の緊張と不安、よくわかります。

そこで紹介したいのが、かの有名な「だるまさん」こと達磨大師とその弟子・慧可とのやりとり「安心問答」です。「あんじんもんどう」と読みます。

これは禅における「安らかな心」という意味で、一般的に使われている「安心した」の「あんしん」と同じ感覚ですが、そのときその場だけの「安心」ではないところが少しちがいます。

「心の不安」に実態はない

弟子の慧可は師匠の達磨に「私の不安な心を解消してください」とお願いしました。

心の不安の解消を他人に依存するなんて、修行僧の身としてはおかしな話なのです。本来それは、自分で解決しなければならない大きなテーマです。

ですから達磨はこのお願いをその場で叱りつけることもできたはずですが、あえてそれを受け容れました。

「その不安な心を自分で取り出してみせたなら」という条件つきで。

確かに不安に感じるのは心の問題です。しかしそのもととなるものを取り出して見せろと言われても、無理な話です。心は目に見えないものであり、そもそも形などないのですから。むろん慧可も、「できません」と答えるしかありませんでした。

もとから不安な心など、実体のないものだということを理解させようというのが、達磨の意図でした。ですから、慧可の答えを聞いた達磨は、「これでもう、あなたの心を落ち着かせた」と言い切ります。

これは、ちょっと強引な論法に思えます。だからこそ、単純なうわべだけの言葉のやりとりではないことがわかりますね。

達磨は慧可に、「心の不安」がじつは確固たる実体のないものであり、それに対する恐れやこだわりさえ捨て去れば、自然に解消されるものであることを示したのです。

風船のように膨らんだ不安を心から掴み出して、パーン!と割ってしまうこと などできません。だから、最初から「ない」と考えるのです。

これがこの禅問答の主題なのです。

実体のないものに囚われず、自分らしさを大切に

空を見る中学生

「取り出すことができない=捕えられない」ということは、自分の考えが未熟だったり、能力がないということではありません。

むしろ自分の存在や能力を絶対に否定的に見ない、そんな積極的な発想の転換があります。

「不安など捨て去って、絶対的な自信を持て」とか、「どうせ目に見えないんだから、自暴自棄になってOK」というのではありません。実体のないものに囚われて緊張するなんてバカバカしいじゃない。だったら心を開放してあげようよ、ということです。

そんな実体のないものにがんじがらめになって、自分を取り繕おうとしてないで、自分の本当の姿を伝えましょうよ。ないものについて考えるのはやめにして、少しでも自分の新しい学校生活を、より自分らしく過ごそうとすることにエネルギーを使いませんか。

ヴィジュアル的には、自分の心を、不安や焦り、恐れや怒りなどの「縄」で縛りつけようとしている感じ。でも、いろいろな「縄」で縛りつけようとしても、縛ろうとする「心」は、形がないのです。だから、結びようがない。それに、不安や怒りの「縄」も、そのときその場の感情ですから、いつの間にかなくなっていくものです。

すぐに消えてしまう縄で、形のない心を捕まえようとする、そんな独り相撲のことを、禅語で、「無縄自縛(本当は存在していない縄で自分を縛る)」と表現します。

「そんなこといわれても、自分をコントロールすることができない!」と思ったら、この際、ポジティブに開き直って「私はとっても緊張しています!」とみんなに宣言してしまいましょう。顔が真っ赤でも、頭が真っ白でもいいじゃないですか。

多かれ少なかれ、みんなドキドキ緊張していることでしょう。堂々としている人でも、内心は不安が見え隠れしているのかもしれません。

不安? 大丈夫、不安だからみんながんばる。それが「自分を表現する」ことになっていくのです。

水口真紀子

1979 年、北海道生まれ。法政大学在学中よりライター、フリー編集者として月刊誌などで活動。2007 年、東京都文京区小日向にある青龍山林泉寺にて在家得度。2009 年、同寺で仏前挙式。現在は三人の男児の母。

石井清純

石井清純

1958 年、東京都生まれ。駒澤大学仏教学部禅学科卒業。2000 年、スタンフォード大学客員研究員を務める。駒澤大学学長を経て、現在は駒澤大学教授、禅研究所所長。

ZENスタイルでいこう


ZEN(禅)スタイルでいこう! (キーステージ21)

10代の学生生活12ヶ月の悩みに、「禅」で説きます。
何千年、何百年と語り継がれてきた「禅語」には、この生きにくい時代、そして悩み多き世代の「考え方のヒント」が隠されています。
積極的「シンプル思考」を身につけて、上手に生きていこう、それが『禅スタイル』です。