「有名人夫妻の子」では伝わらない岸谷蘭丸さんの苦闘の過去 難病、勉強とどう向き合った?
近年SNSで話題となり、「MMBH留学」というサービスで留学支援事業や教育活動で注目を集める岸谷蘭丸さんが、自らが芸能人2世であることを初めて公にしました(それまで柚木蘭丸として活動)。
「本名で活動する以上、いずれ知られることは避けられない。僕の人生にとって切り離せない事実だから、隠すつもりはなかった」と語ります。今回は、蘭丸さんが、これまで自身の努力を基盤にキャリアを築いてきた軌跡を聞きました。
周囲から「かわいそうな子」だと思われていることに気づいていた
――幼少期には、難病を抱えながら過ごされたそうですが、当時のご自身の状況をどのように捉えていましたか?
岸谷蘭丸(以下岸谷):そうですね。3歳から4歳の頃にリウマチの診断を受け、入退院を繰り返す日々でした。物心ついた頃から「自分は普通じゃない」と感じていましたし、周囲から“かわいそうな子”と思われていることにも気づいていました。
――幼少期、病気と向き合いながらどのように日々を過ごしていましたか?
岸谷:いつも体の痛みがあって、座っているのもつらいような状態でした。入院中は不安になることも多く、「いつ死ぬんだろう」と思うこともありました。でも、本を読むことで心が救われましたね。『はらぺこあおむし』から始まり、少し成長すると伝記や青い鳥文庫をよく読みました。特に松谷みよ子さんの作品が好きでした。
それでも両親は病気だからといって僕を特別扱いせず、スキーや水泳、サッカーなどのスポーツにも挑戦させてくれました。そのおかげで病気があっても、“普通の生活”を送ることができ、本当に感謝しています。
小学校受験の理由は「学校の病気への理解」
――小学校受験を決めたきっかけは何だったのでしょうか?病気を抱えての受験対策は大変だったのでは?
岸谷:小学校受験を決めた理由の一つは、病気があった僕に対して理解があり、入学後も学校生活でフォローしてくれる環境が整っている学校だったからです。幼い頃から病気の影響で体調を崩すことが多かったので、勉強や生活面でサポートを受けられる学校を選びました。
それに加えて、僕は目標がはっきりしていると頑張れるタイプなので、小学校受験も大きな目標になりました。絵を描くことが好きだったので、それが受験の強みになりました。箸で豆を皿から皿へ移動する練習なんかもしましたね(笑)。
――小学校入学後はどのように過ごされましたか?
岸谷:入学後も、病気の影響で勉強に制約があったことは事実ですが、周囲のサポートが本当に大きかったです。病気で欠席した分も先生方がしっかりフォローしてくれる環境が整っていました。特に、皆勤賞を目指していた僕に対して、体調が悪い日でも1時間だけ授業に出席できるよう工夫してくれたことは印象深いです。そうした支えのおかげで、目標に向けて歩み続けることができました。
――9歳のとき、新薬の治験が転機になったと伺っていますが、具体的にはどのような効果があったのでしょう?
岸谷:劇的でしたね。新薬「アクテムラ」を試した翌日から体が軽くなり、それまで常に感じていた痛みが消えました。「これが普通の体なんだ」と驚いたのを覚えています。この経験を通じて、「自分の人生は自分で切り開く」という気持ちが強くなりました。
決意のダイエットで20kgの減量に成功
――中学受験を決めたのはいつ頃ですか?
岸谷:受験準備を始めたのは小学校5年生で、遅い方だったと思います。SAPIXに通い始めた頃は、クラスの真ん中くらいの成績でした。本をよく読んでいたおかげで国語は得意でしたが、理科と社会は全く勉強していなかったので、平均的な成績でしたね。ただ、理社の勉強を始めると、テストのたびにクラスが上がっていきました。
――志望校を決めた理由は?
岸谷:早稲田実業に決めた理由は、入学後に勉強したくなかったので大学まで行けること。もちろん早実は中高でも成績が満たないと留年がありますが、それはやっていけると思いました。それから男女共学という点でした。女子にもてたいという気持ちもありました。(笑)
とはいえ、病気の治療で使用していたステロイドの副作用で太っていたので自信もなかったし、もてませんでしたね。中2の冬に一大決心をしてダイエットをして、20kg近く痩せました。
――志望校に合格し、学校生活は楽しくすごせましたか?
岸谷:そう…ではなかったですね。早稲田実業中学では最初は順調でしたが、中学2年頃から校風の厳しさや、自分の目標が見つからないことに苛立ちを感じるようになりました。授業中に寝たり、保健室で過ごしたりと反抗的な態度を取っていましたね。
アメリカでの留学生活では「1日16時間の勉強」で逆転
――中学卒業後、留学を選ばれた経緯を教えてください。
岸谷:中学3年の夏にセブ島で短期留学を経験し、初めて異文化に触れる面白さを実感しました。それがきっかけで「世界で挑戦したい」という思いが芽生え、早稲田実業の高校への進学を辞退して、アメリカの高校に進学する決断をしました。親も最初は心配していましたが、僕が新しい目標に向かって動き始めた姿を応援してくれました。
――留学生活ではどんな苦労がありましたか?
岸谷:一番は英語ですね。アメリカの高校では最初、一番下のクラスからのスタートでした。でも「1学期ごとに1つ上のクラスに進む」という目標を立て、16時間勉強する日々を続けました。その結果、3学期で3年分の課程を終えることができました。その後、進学を見据えてニューヨークの高校からプリンストン(ニュージャージー州)の進学校へ転校しました。
日本の英語教育に欠けているもの
――大学進学について教えてください。
岸谷:大学は、ロンドン大学とイタリアのボッコーニ大学のどちらに進学するか悩みました。ボッコーニ大学にはアートやクリエイティブ分野の経済を学べる学科があり、最終的にはその独自性に惹かれて進学を決めました。実際に学んでみて、自分の興味や目標に合致していると感じています。
――現在、日本の英語教育についてどのように感じていますか?
岸谷:日本の英語教育は圧倒的に量が足りないと感じます。TOEICや英検のような目標を設定した上で、効率的に学ぶことが重要です。また、日本の文法教育は非効率的だと感じます。僕が提携しているLiberty English Academyでは、文法を個別に暗記するのではなく、全体の構造をロジカルに理解する方法を採用しています。この方が実践的な英語力をつけやすいですね。
――現在、留学支援事業をされていると伺っています。
岸谷:はい。自分が留学で得た経験を、日本の若い世代に届けたいという思いから始めました。”留パス”という情報プラットフォームも創設し、情報面でも日本人の留学をサポートしています。特に経済的なハードルを乗り越えるための奨学金支援も計画しています。
――最後に、岸谷さんにとって“勉強”とは?
岸谷:自分の可能性を広げる手段ですね。幼少期からの受験や勉強を通じて、目標値を設定したときに、自分の能力と、どれぐらい必要かっていうのを計算してシステム構築ができるようになりました。
自分の人生を切り開く力を身につけられたと思っています。